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コーヒーの栽培方法を見つめ直し、土壌の再生と気候変動問題の解決へ寄与することをミッションにポートランドで発足したスペシャルティコーヒーロースター〈OVERVIEW COFFEE〉が日本に上陸した。このロースターでコミュニケーションマネージャーを務める矢崎智也さんは、信越五岳トレイルランニングレース(100mile)で8位に入賞したウルトラディスタンストレイルランナーでもある。「100マイルレースのためのトレーニングとコーヒー焙煎には似たところがあるんです」という彼の言葉をきっかけに、今回の寄稿を依頼した。

カフェの高揚感、レース前の静けさ

お店の営業がはじまる1時間前には到着して、兎にも角にもまずはしっかりと手を洗う。エスプレッソマシン、給湯器、ブリュワーの電源をオンにして、内部の水を温めながら、適度に排水して新鮮な状態まで循環させる。

バーカウンターまわりの道具を一通り並べてからレジをセットする。湿らせた布巾をいくつか、いつもどおりの手が届きやすい場所に配置する。次は客席を確認しておこう。テーブルを拭き上げてから椅子の位置を整える。フロアに汚れはないか、ガラス窓は汚れていないか、お手洗いは安らげる状態か、ひと通りの確認を済ませて、頭の中にあるチェックシートをうめていく。

ここから先はエスプレッソのレシピを整える時間。昨日のレシピに倣って正確に抽出して、落ち着いてティスティングをする。だいたい、一発目のショットが一番美味しかったりする。チョコレートのように柔らかい液体が舌を包んで、キャラメルのような甘さや、くだもののような果実感が口に広がる。一口、そしてもう一口と徐々に馴染ませながら、舌触りや余韻を確認していく。もしもサラッとしすぎていたら、ほんの少しだけ挽目を細かくして質感やフレーバーに厚みをもたせる。逆に、苦味がフレーバーを覆っている時は挽目を荒くして、過抽出にならないようにバランスを整える。どのみち、主役はコーヒー豆そのもの。つまり、品種であり、産地である。持ち合わせていないフレーバーを抽出によって出すことはできないし、あるものを過不足なく整えることが大切だ。

レシピが完成したら、音楽をかけよう。その日の気温や、日差しの印象を参考にする。個人的にはD’Angeloの『Voodoo』が聴きたい。「Playa Playa」のうごめくようなリズムが、オープニングのテーマにはぴったりだと思っている。今日だって、どんな一日になるのかは始まってみないとわからないんだから。ただ、あまり一般的な朝のリズムとも言えない気がするから、「Ain’t No Mountain High Enough」(Marvin Gaye & Tammi Terrell)で一日のはじまりを気持ちよく迎え入れようじゃないか。お店を開けたらそこから先はお客さんとスタッフ、そして天気が雰囲気を作っていく。カフェにおけるクリエイティビティ、それはコーヒーを介したコミュニケーションであり、優れたバリスタは五感を刺激する表現者である。

どうか、この場を共有するすべての人にとって良い一日になりますように。

オープン前の静けさは、どことなくトレイルランニングレース、とりわけロングディスタンスの直前と雰囲気が似ている。手持ちの装備をチェックして、補給をデポバッグに振り分ける。シャワーを浴びて歯を磨き、気持ちのよい状態に整える。天気を確認して、これから起こることを想像する。コーヒーの抽出がそうであるように、持っている以上のものを出そうなんて甘い期待はせずに、冷静に出力をコントロールする。あとはスタートの合図が鳴るまで、静かに熱く心を燃やす。走り出してしまえば地形を理解し、自分を観察し、そしてギャラリーやスタッフと交流することに集中するだけだ。ランニングという反復運動のなかで、願わくば思い描いた表現をしたい。それは、毎日のトレーニングで想像したゴールシーンであり、苦しい瞬間の乗り越え方であり、声援に対する感謝の言葉である。

越えられないほど高い山はなく、ゴールを阻む障害にはならない。

Stravaに接続された焙煎機

スペシャルティコーヒーという言葉が浸透して以降、コーヒーロースターが注目される機会が増えた。産地を訪ねて、或いはラボで素材を選定して、各々のコンセプトに沿って焙煎し、パッケージングされたプロダクトとして世に出す。メディアを介して見受けるロースターは、職人性を美しく装飾されている場合が多いが、実際は変化の少ない日々の連続であるように思う。焙煎して、梱包をして、発送をする。ランニング同様に反復的な動作が繰り返される。

焙煎士にとってのクリエイティビティとはローストしたコーヒーを味わい、ローストプロファイル(時間軸に対する温度変化)を検証する時間だ。一見、職人的なカンと経験の世界に思われる焙煎だが、実際はデータの蓄積と、比較検証によって質を向上させていく。焙煎中はセンサーによってリアルタイムに温度変化を捉えて、数値をもとに熱の加減をコントロールする。過去に焙煎した最適なローストプロファイルを下地として、焙煎中の温度をデータにトレースさせていくことで、最適な焙煎を再現させる。つまり、データによって客観性を保ちつつも、瞬時の状況判断は焙煎士の経験と感性に依る。後日、プロファイルを見ながらコーヒーを飲んで、味わいというある程度主観的なものを数値で補足して、次の焙煎がより良いものとなるように検証する。あくまで主体は人間の感性でありながら、それが独り歩きしないようにプロファイルが地図の役目を担う。一連のルーティンをより滑らかに、アップデートしていくことがロースターにおけるクリエイティビティと言える。

2019年の秋、はじめての100マイルレースに挑戦した。つまり160kmの距離を、それもアップダウンのある山道を、寝ずにひたすら進み続けるわけだ。どんな状態になるのかまったく想像がつかないなかで、ひとつ確実なことはトレーニングなしに完走はないということ。それも、計画的にトレーニングをすることと、怪我なく本番を迎えることが必須条件だということは理解していた。さて、どんなアプローチがいいんだろうか。

アドバイスをもとに”マフェトン”というトレーニング理論を実践することにした。簡単に言うと、最低3ヶ月は一定のペースだけで走り続けるというシンプルな方法だ。この一定とはジョギングよりはいくらか速いけど、息が切れるペースではない、つまり有酸素運動の上限値あたりをさす。高強度の運動はNGというわけだ。最低3ヶ月という長さと、同じペースという単調さ、そして負荷をかけないという不安感から敬遠する人がほとんどだと聞いたが、説明を聞いてこれで完走間違いないと確信した。

幸い、日々のパッキングという業務から単調さへの耐性は十分すぎるほど備わっていた。ルーティンワークを磨くことのクリエイティビティは、焙煎所の日常が教えてくれた。自分の身体がただ焙煎機になったつもりでいれば良いだけだ。センサーに感知された心拍数は時計に表示されて、脳は出力をハンドリングする。特に、疲れが見えてきた以降の推移に注視する。焙煎で言うなら、爆ぜたあと急速に進む変化に似ている時間帯だ。

トレーニングを終えれば主観的に疲労度を捉える。Stravaでデータを整理して、一週間を振り返り、翌週のアプローチを想像する。ひとつのアクション自体は単調のようで、反復の美学は洗練されていく。いずれ大きく振り返った時には同じアクションの中に、まったく違う密度のものを実感する。同じだからこそ、はっきりと差異を捉えることができる。やれることは厳密に、そして徹底的にやる。トレーニングの最中はゴールの瞬間を思い浮かべて、いざ終わってみると過程の中に本当の価値を発見する。

記憶に残ればそれで良い

はじめて美味しいと思ったコーヒーの味をはっきりと覚えている。友人が淹れてくれたエスプレッソで、飲み終わった後にいつまでも余韻が続いていた。カフェに行くことの醍醐味を知ったのは馴染みのお店が出来てからで、結果的に当時のバリスタたちが自分をコーヒー業界に引き上げてくれた。

はじめてのトレイルランニングもはっきりと覚えている。100マイルレースの衝撃的なゴールシーンを見て、次の瞬間にはシューズを買って山に向かった。先輩ランナーに引き上げてもらったことで、今じゃトレイルランニングコミュニティの一部でいることができている。

評価の高いお店、技術の高い焙煎、コンペティションの世界に対する敬意と同時に、それ以上の何かを求めている。トレイルランニングで言えば、順位やタイムのような記録よりも、記憶に残るその瞬間を求めてトレーニングを重ねて、そしてゴールを目指す。それは高揚感から苦しみまで、まるごと抱えた感情であり、ランナー同士のシンパシーであり、歓声へのレスポンスが走ることを通した表現となる。

良いコーヒーのカップコメントに”Complex”という単語がある。つまり”複雑さ”だ。コーヒーという液体の中に感じ取れるフレーバーの種類が多いほど、味わいに奥行きが生まれる。

方法論はシンプルに、感情は複雑である方が、トレイルランナーはどこまでも進み続けることができる。

矢崎智也

矢崎智也

OVERVIEW COFFEE JAPAN / コミュニケーションマネージャー
コーヒーの栽培方法を見つめ直し、土壌の再生と気候変動問題の解決へ寄与することをミッションにポートランドで発足したスペシャルティコーヒーロースター〈OVERVIEW COFFEE JAPAN〉(2021年から日本での焙煎を開始)で主にカスタマーコミュニケーションを担当する。
トレイルランニングではウルトラディスタンスを中心に情熱を捧げる。好きな言葉は「選択と集中」「記録より記憶」
https://overviewcoffee.jp