(文 中島良平 / 写真 阿部健 / 動画 TOTAL TIME 00:57 記事最下段 )
アフリカ縦断やアジア横断といった旅行の移動を膨大な写真に収めた作品集や、石油を運ぶために設置された管路(パイプライン)をアラスカで撮影した『PIPELINE ALASKA』などで知られる写真家の石塚元太良。旅を繰り返しながらレンズでとらえる被写体を探し続ける彼は、カヤックでアラスカの氷河にアプローチして氷壁のクライミングを行うなど、撮影のために移動と行動領域の拡張を続けています。過酷な地への旅に必要な道具と撮影機材とのバランスをどのように調整しているのでしょうか。そんな話を聞いていくうちに、彼の写真表現そのものの背景にあるless is moreの考えが浮かび上がってきました。
ターニングポイントはパイプラインとの出会い
写真を志そうと決めてからアフリカ縦断やアジア横断などをして、そのころは、ただ移動をしながらひたすら撮影を続けていました。もちろん移動する心地よさというのはあるけど、何を撮ろうか定まっていない状態が続いていて、アラスカに行ってパイプラインを撮ったときに初めてオリジナルを見つけられたというか、何かしらをどこかから拝借したのではないモチーフと出会った感覚がありました。
北は北極圏から南は太平洋まで、石油を運ぶためのパイプが1280キロも大自然を貫通している。ただのグレイトネイチャーの写真ではなく、そこに人工的なものが入ることで対比が生まれる。写真に撮ることで、パイプラインという目的を持った設備がオブジェのように見えてくる。これが1280キロも続いているってこと自体に“ホントかよ!”って驚いたし、こんなモノを作った上に自分たちの生活が成り立っているわけです。それが結構ショックで、このパイプラインが自然を搾取しないと生きていけない自分たちの姿のようにも思えてきます。
作品が成立する条件、そこからの展開
アラスカの自然って、奥行きがすごくあってフォトジェニックで、スケール感もすごい。でも、そこで何を撮っても作品として成立するわけではありません。作品になる条件としては、ビジュアルとしてすごく強力であることは大前提。そして、自分がずっと見続けたいと思えるモチーフであること。パイプラインは1280キロも撮り続けようと思ったわけだし、そこから飛び火してアイスランドやアルゼンチンのパイプラインもリサーチするようになった。また、アラスカに関していえば、この何10年かでできあがったパイプラインを見ていたところから、100年以上前に起こったゴールドラッシュの遺跡に目が向くようになりました。パイプラインを設置するよりも前には、人が金を求めて山に入っていった歴史があって、金を掘っていた人たちの設備などが未だに手つかずで残っているから、その足跡をたどることができます。ゴールドラッシュをテーマに撮影していると、またアラスカが違った見え方をしてきます。アラスカのパイプラインからそうやって展開したように、作品として成立させた後に自分がどれだけそこから広げていけるか、というのが大切だったりしますね。
旅の装備を軽く、撮影機材は重く
最近『氷河日記 プリンスウィリアムサウンド』という本も出したんですが、アラスカでは氷河の撮影も続けています。氷河っていうのは文字通りに川で、山に降り積もった万年雪が上からの重さで圧縮されて、氷となって海に向かって流れて行って海と出会ったところで終わります。その海とのキワの部分をカヤックで目指して撮り始めたのが最初です。もうそのときに、すごい作品になるんじゃないかという理屈ヌキの手応えがあって、でもこのまま続けたら死んじゃうぞ、っていう。このころまで、アウトドアに関しては本当に素人だったんです。ホームセンターで買ったようなテントとか雨ガッパを使っていて、そんなのではとてもじゃないけど自然に入っていけない。ゴアテックスとかポーラテックとか、そういう現代の素材のギアを使ってみると感動するわけですよ。本当はそれだけのギアに守られたら、自然との一体感から遠ざかってしまうのかもしれないけど、僕にとっては撮影するためにそれが必要。ギアの力もあって、もっと遠くまで行くことができる。装備がどんどん軽くなると、逆に撮影機材を重くすることができる。氷河はアウトドアの素人である自分に、間違いなく素人が攻めきれないような自然に入り込んでくることを要求してきているわけですから。
氷河の深い青で表現する時間の芸術
写真というのは、僕は引き算の芸術だと思っています。ファッション撮影みたいに、スタイリストやモデルがいて、いろんな人のグルーヴ感で成り立つ足し算の撮影というのもあって、そういうのもうらやましいと思うんだけど、僕の場合は自分ひとりでやっている。アラスカに行くのもひとりだし、いろんな場所を回るのではなく、いろんなものを削ぎ落として自分を追い込んでいく。そうでもしなければ、氷河にまで行こうとは思えません。それともうひとつ思っているのが、写真は時間の芸術だということ。2週間分の食料と機材を積んだカヤックで氷河にアプローチして、そこをクライミングして洞窟を探しながら青い部分を見つけて撮影しているんですけど、その青さには時間性が凝縮している。つまり、何千年も何万年もかけて水が単一結晶化して、赤や黄色の短い波長の光を通り抜けさせて異様な青さがそこに残る。その時間性とビジュアルの綺麗さが相まって、モチーフとして成立すると思っているので、そんなことを意識しながらアラスカでの氷河の撮影を続けていきたいですね。