fbpx

(写真 山内聡美 / 文 村松亮)

南米のパタゴニアにそびえる標高3,102メートルの峰“セロトーレ(Cerro Torre)”。

世界一登頂が困難で、世界中のクライマーたちを惹き付けてやまない山。この山にフリークライミングの若き天才、史上最年少でクライミング世界チャンピオン称号を手にいれたデビッド・ラマが挑んだドキュメンタリー映画『クライマー パタゴニアの彼方へ』が先週末より公開されている。

難攻不落で知られる“セロ・トーレ”とは、いわく付きの山としても知られる。1959年、イタリア人登山家のチェザレ・マエストリによって初登頂がなされるも、彼と一緒に登ったトーニ・エッガーは下山中に不慮の死を遂げてしまう。その死とともに、登頂の証拠となるカメラも岩肌に叩き壊されてしまったため、以来、50年間以上に渡り、今だに誰が本当の意味でこの山頂を登頂できたのかその答えは出ていなかったのだ。

劇中、デビッドは3年の歳月をかけ、3回に渡るセロトーレ登頂にチャレンジする。2009年の冬に実際された初回のチャレンジは失敗に終わり、しかもあろうことか撮影チームが岩に新たなボルトを打ち込み、それを壁面に残してきたことで山岳界から大きな非難を浴びることなる。

そして、2度目の挑戦となった2011年。見事山頂へと到達するも、一部のボルトを使用したために挑戦は失敗に終わることとなる。そして2012年、デビッドは3度目のチャレンジに挑む。しかしその直前、“セロ・トーレ”を巡るセンセーショナルな事件が巻き起こり、彼らはプランを大きく変更せざる得なくなる。すべては本編にてお楽しみいただきたいが、ここからネタバレもあるので、注意して読み進めてほしい。

彼は結果として、前人未到の“セロトーレ”へ挑み、2度目のチャレンジで山頂に達するだけなく、さらに3度目のチャレンジでは素手と命綱だけのフリークライミングにてセロ・トーレを完登する。

映画の公開に合わせて来日したデビッドに話を聞くことができた。このチャレンジを通じて、彼はクライマーとして何を得たのか。

5歳から岩肌を登り、
8歳でコンペに参加するようになった

もともと僕は、山には縁があったんです。祖父がチベットの僧侶だったんですけど、中国の信仰にともなってネパールに移住しました。そんな山深い場所で僕の父が生まれて、母はオーストリアからネパールへトレッキングで訪れ、その時のガイドが父だったんです。それで二人は恋に落ちた。僕はオーストリアで生まれ育ちましたが、5歳の頃にロッククライミングと出合っています。ハイキングやトレッキングを楽しんでいた両親が、ネパールのための援助プログラムに参加している時にペーター・ハーベラーというエベレスト無酸素登頂を果たした有名な登山家と出会うんです。

その彼が「クライミングをしてみない?」と誘ってくれたんです。そこからは、インドアと外岩とを両方登るようになって、8歳の頃からはコンペティションに出場するようになりました。インドアでやるときはコンペティションのトレーニングでテクニックを磨き、一方で外岩でのロッククライミングも大好きだったので続けていました。それで気がつくと、ユースの大会で獲れる賞はすべて獲ってしまった。本来はシニアの大会は16歳からでないと出れないんですけど、特別に15歳で参加することにもなったんです。その時は2位に終わってしまったんですけど、翌年には優勝し、ヨーロッパチャンピオンを2回、ワールドカップでも総合優勝を経験しました。

スポーツクライミングの恩恵
忘れかけていたクライミングの基礎

コンペティションでのクライミングと、アルパインとでは、全く違うものだったということは言うまでもありません。自分の犯したミスや、その場での判断が結果に直結しますから。もちろんその点はスポーツクライミングとも通ずる部分もありますけど、より結果が大きく重くのしかかってきます。守られた環境ではない中で、登らなくてはいけない。山を登るために必要とするマインドを知るまでに、2年という月日を費やしました。セロトーレには、フリークライミングの技術だけでは登れなかったんです。2年かけて、アルピニスト的な経験を積むことができ、本当に最後のパズルのピースとして、フリークライミングが僕を少し助けてくれたんです。

フリークライミングで培ったもの、その培ったものの中でも今回のチャレンジ成功を最も後押ししてくれたのは、第3の目をもつことでした。すなわち、直感。岩を見たときにどうやって登るか、そのルートが見えるかどうか。ここをこうリンクさせて、こう登ろうっていう、「岩を読む力」というのがすごく役立ちました。

劇中、僕は“最初の2年間はクライミングの基礎を完全に失ってたんだ。” そんなコメントを残しています。

振り返ってみると、自分なりのスタイルや本来の登り方を、アルパインだと見つけるのがとても難しい、まさにそれがひとつの壁だったのかもしれません。ルールもなく、本当に何をやってもいいという状況の中で、自分なりのスタイルを見つけ、ブレずに最後までやり通すということ。これがもしかしたら最も難しいことだったかもしれませんね。

この壁を乗り越える条件となったのが、2年という歳月をかけて山を知ること。そして、スポーツクライミングで身につけた自分のやり方、自分のスタイルを思い出すことでした。スポーツがもたらしてくれるものとは、自分が人生のどこにいて、どこに向かっているのかをみせてくれることだと思うんです。

(写真 映画『クライマー パタゴニアの彼方へ』より)

自分の人生を変えた、
最もロマンティックな瞬間

“セロトーレを選んだのは、登頂すれば何かを学べると思ったからだ。ここでは新たな経験ができる。それによって、自分のことをもっと知れる気がしたんだ。”
映画『クライマー パタゴニアの彼方へ』より

今回セロトーレに3回挑戦している中で、2回目のチャレンジで僕は一部ボルトを使って、フリークライミングではないカタチで登頂することになりました。

映画では、その後、僕は3度目のチャレンジに挑み、素手と命綱だけのフリークライミングスタイルで再度、登頂します。この2つの登頂について言うと、実は“フリークライミングであろうがなかろうが関係がなかった自分”というのが存在しているんです。2回目のチャレンジで登頂した瞬間は、一生忘れられないくらい美しく、特別なひとときだったんです。

僕はあのときボルトも使って登っていましたけど、それを使うことに罪悪感なんて一切なかった。自分のクライミングのスタイルではなかったけれど、身体で感じ取れていた夕陽を山頂で見てみたいという想いひとつで登りきった。それで降りてくるときに、岩壁の形状を自分の目できちんと確認できて、“これだったらなんとかフリークライミングでいけるんじゃないか”と実感できたんです。

つまり色んな意味で、あのときにああいうカタチでセロトーレを登ったことは必要不可欠なことでした。

セロトーレへの挑戦で最も高揚した瞬間は? と聞かれたなら、一度目に登頂できたときです。本当に自分の人生を変えた瞬間でしたし、その瞬間に僕はスポーツクライマーからアルピニストになったんだと思っています。映画を見ていただいている方には分かるはずですが、空は青く光り、その上に黄金の夕闇がかかっていた。僕ら二人だけが山の上に立っているんですけど、周りはすべて暗闇に包まれていて、とても純粋でロマンティックで。山は必ずしもすべてがロマンティックではないけれど、でも本当に、あの時間はロマンティックだったんです。

何かをやり遂げるために挑戦する自分を保ち続けるためには、不可能なことに挑み、その“不可能”をとにかく克服してやるんだということが大切です。でもそればかりでは足りなくて、ときにはその“不可能”の方を勝たせてあげる、ということも必要なんだと僕は思うんです。そうすることで前進できることもまたあるんだな、と思いますね。

デビッド・ラマ
1990年オーストリア出身。ネパール出身の山岳ガイドの父と、ウィンタースポーツの地として有名なオーストリア・インスブルック出身の母を持つ。2005年にユースの大会でワールドチャンピオンになると、弱冠15歳にしてシニアのワールドカップへの出場を特別に許可される。1年目のシーズンでは、史上最年少で世界王者の栄冠を手にすると、その後も勢いは止まらずヨーロッパのチャンピオンシップで2つのタイトルを獲得。本作では、南米パタゴニアの山″セロトーレ″南東稜のフリー化に挑んでいる。

映画『クライマー パタゴニアの彼方へ』
監督:トーマス・ダーンホファー
出演:デビット・ラマ(史上最年少クライミング世界チャンピオン)、ピーター・オートナー、トニー・ポーンホルツァー
2013/オーストリア/103分

予告編:
https://www.youtube.com/watch?v=hCTrruh1ubo

配給:シンカ 提供:シンカ/ハピネット
http://climber-movie.jp