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(写真 小野直樹 / 文 久恒杏菜 / 取材協力 Saturdays Surf NYC

日本におけるサーフィンの歴史がスタートしたのは、1960年代後半とされている。そんな時代の少年たちは、海を渡ってやってきたサーフカルチャーへの憧れと大きな野望を抱き、波乗りに魅了された。東京生まれ、湘南育ちの“レジェンドシェイパー”植田義則さんもそんな少年の一人だった。「サーフィンで世界へ羽ばたく」という夢を描き、シェイパーというライフスタイルに辿りついてから早40年余り。

サーフィンの神様と呼ばれるジェリー・ロペスに師事し、シェイプを学び、全盛期のライトニングボルトの日本生産を手がけ、自身のサーフボードブランド「YUサーフボード」を立ち上げたのが1981年。現在に至るまで、ジェリー・ロペスや、11度のASPワールドチャンピオンに輝いているケリー・スレーターはじめ、国内外の名だたるライダーのボードを生み出してきた。そんな伝説的なシェイパーを訪ねる機会を、 Saturdays Surf NYCさんの協力の元、 得ることができた。自然を愛すサーファーとして、そして、日本が誇る板作りの職人として、第一線に立ってきた植田さんの瞳にうつる今と昔について、話を聞いた。

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アメリカンカルチャーが押し寄せた60年代、サーフィンとの出会い。
僕らの少年時代っていうのはアメリカンカルチャーっていうものに対する憧れが特に強い時代でね。ヒッピームーブメントとロックな音楽。テレビをひねればアメリカンホームドラマがやっていて、っていう。そういったアメリカのカルチャーを見て、向こうへの憧れを持った子どもでした。サーフィンっていうのも、かなりアメリカ色が強かった。そのとき(60年代後半)の湘南ではすでに、一部のお兄さんたちがサーフボード持ち始めてましたよ。

そんななか、いち早くサーフィンを始めたのが親友でした。彼がきっかけで、サーフィンを始めてみると、やってる人たちは個性の強い面白い人たちが多くてさ、すべてが自分に色が合ってるな、と肌で感じられた。

綺麗な夕陽の鵠沼でさ、「すげえ綺麗じゃない?」ってみんなで言い合える。それが子どものうちからできたのは幸せだったね。そうして、ずっとサーフィンに夢中になっちゃってるから、高校も辞めちゃって、この仕事に就きはじめた。働いたお金で海外にも行き始めて。当時は、ハワイへ行くチケットが30万円くらいするのよ。1ドル360円の時代だし。働くといっても、手取りで貰えるのがひと月2万5千円くらいで。給料もそんなところから始まってるから、サーフボードつくりでご飯が食べられるなんて思ってなかった。

「板作り」で思い描いた夢。
僕らが子どものときは、今と違ってアナログな時代だから、自然や動物が好きでさ。将来的に自然とふれあいながら時間を過ごすということが見えたから、サーフィンが廃れるわけはないと思ってたし。また唯一、堂々と「今日は波があるからだめ」って言えちゃう仕事じゃない? それはこの仕事しかなかったわけですよ。

もちろん当初は、自分がプロサーファーとして成長したかったですよ。でも、最初のハワイに行って思ったことは、あまりにも世界のトップクラスとは、開きがあったということ。それに、湘南とハワイでは、波の有る無しとサイズ、すべてに大きな差を思い知らされた。その頃から板作りにより夢中になった。これなら、日本の職人気質も含めて「板作り」っていうことでワールドクラスになれちゃうかもとか、そういう夢を抱いたりもしました。

そうこうしてるうちにサーフィンもどんどんブームになって、(ボードを)作ればいくらでも売れる時代に。また、湘南は日本のなかでのメッカ。世界のトップライダーにも出会えちゃう恵まれた環境に居られたから、ジェリーさん(ジェリー・ロペス)とも知り合うこともできたり、色んなことがめまぐるしく変化していきました。学校も辞めちゃったある意味すごくアウトローな僕が、さまざまな素晴らしい出会いのおかげで、貴重な時間を過ごさせてもらって、色んな世界のことを勉強できましたね。

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サーファー、シェイパー、どちらも好きなこと。だから夢中になれる
あと年に一回必ず冬のノースショアには行ってます。ただ波は怖いからね、命かかるし。歳だからそこまでチャレンジっていうようなことはもうやらないけど、コンディション次第でやれる範囲を見極めてますね。

70年代からずっと、波がなけりゃ週6日はシェイプやってますよ。若いときは「もっと海に行きたい」という想いが強かったから、辛いときもあった。今のほうが、この仕事で食べられてることに幸せを感じられるんでしょうね。削ってるときだってサーフィンのことなわけで、好きなことだといくらでも時間を使っちゃう性分なんだよね。
 

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職人としての経験値、サーファーとしての気持ちが乗り味の命となる
板作りに関しては、一生懸命練習したっていうよりも何万本もやってくうちに、積まれてきた経験値が大事。乗り味の加減は経験を積むほどに、熟練度を増してきたものです。いまでも去年より今年のほうが上手い。だから当然、次削るのは必ずこうしよう、と思う。乗り味の感触に生きてくるのは、サーファーとしての気持ちです。

やっぱり好きでやってれば自分の持ってるすべてを、その1本にぶち込むわけです。自分の持ってる過去の経験から「これじゃ厚すぎるかな、薄すぎるかな、ロッカー(注1)強すぎるかな、なさすぎるかな」とか、すべて自分の中での加減。この板に乗る人が体重いくつだからこうだ、ああだって。ラフに終われるのはいくらでもあるけれど、やっぱりそこには自分が得たい何か夢中なことがあるから、それは自然と希望もエネルギーも入る。

大事なのは「気持ち悪い」っていう感覚。ラフがいけないかって言ったらこれは乗り物ですから、乗った性能が良ければいいってこともありますよね。それは道具であって、飾る物じゃないから、それを忘れた話をしちゃ一番良くない。ただ、それは当たり前の話として、より緻密に表せる方がいいんじゃないですかね。クリーンなほどいいと思います、相手が水なんだもの。

注1:【ロッカー】サーフボードの反り。この反りの角度の強弱で波に対して接水する面積が異なり、ライディング上の回転性や加速性を左右する。

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トライアンドエラーの繰り返しで進歩していく、技術と道具
サーフボードっていうのはデザインが先かサーフィンのマニューバ(注2)が先かって言うんだけど、要はサーフボードのデザインの進化が生まれることによって今まで不可能だったマニューバラインを描けることになるっていうのがひとつ。ひよこか卵かという話ですね。

マニューバが成功してデザインを変えること、もしくはデザインを変えることによってマニューバが変化する、いわゆるこのトライアンドエラーの繰り返しで、今に至る進歩がある。多分これはなんでもそうなんだけども、恐らくスケートボードだってスキーだって、始まりの頃は今ほどラジカルじゃないわけでしょう? でも、イメージが成熟してくると、人間って大したものだから昔じゃ無理だったことが、想像できなかったところまで進歩していく。プレーヤーの技術とともに道具も。

注2:【マニューバ・マニューバー】ボードが通り描くライディングのコース(ターン、技なども含む)。
それぞれのサーフィンを楽しめる道具作りを心掛けて
そうやってどんどんすごい次元のことをメイクするようになってる人間の素晴らしさは、やっぱりそこに対するエネルギーですよ。「それやりたい」っていう欲と、それに適した物がどういう物かっていう研究もされ、それに沿って道具ができていく。サーフィンにおいてもそういうのを経て、コンパクトに短い板が誕生して、さらにこの10年くらいでどんどん短くなった。

スポ−ツとしてのサーフィンの道具っていうことからしたら、当然、現代のモノのほうがベスト。でも、サーフィンってスポーツってくくりだけじゃなくって、色んなふうに楽しむ人たちがいる。それぞれにあったサーフィンでいいわけだし、なにもみんながプロを目指さなくてもいい。スタイルは一つじゃない。

昔は同じようなショートボードでも一日何本作っても全部売れちゃうほど、トレンドが集中してたけど、今はデザインの幅も広がり、一人ひとりのオーダーも細分化してきたね。なので、一本づつ頭をスイッチして作ってますよ。

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世代を渡ってきた今の楽しみ
有名なサーファーに信頼される板を作りたい、若い頃の夢はいまも変わらないよね。だから、そういう意味じゃもう満足してるって言えばそれまでだけど。もう歳だからいいんだって満足するんじゃなくて、いかようにもチャレンジしていきたいんですよ。

将来の世界チャンピオンを目指して頑張っている子たちもいるし、そういう子どもたちにも、今そして次のステップに向けた、その子のためのチューニングはしています。だから、次世代のサーファーたちの成長も楽しみだし、いい成績残してくれたらやっぱり喜べるよね。

今までもそうだけど、サーフィンの動向は、いくつになっても見てて楽しい。例えば、一度は影に隠れて消え去ったと思ってた70から90年代あたりの昔のものを、今の人たちが全部引っ張りだして喜んでる。とくに都会のほうはね(笑)。

今年はロンハーマンから(ライセンサー経由で)頼まれて、ライトニングボルトのリバイバルのボードを削ったよ。当時を思い出しながら削ったり、青春のリバイバルじゃないけどさ。この歳になっても、自分が20代のときにいっぱい削ったような注文が来たり、そういう楽しみはあります。時代が繰り返されたり、新しい風が吹いたりすることによって、日々新鮮な気持ちで削れてる。ボケる心配がなくていいんじゃないかなと思います(笑)。やりがいっていうものはいくつになっても尽きはしないです。

 

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植田 義則(うえだ・よしのり)
1954年生まれ。サーファー。サーフボードシェイパー。「YUサーフーボード」代表。
’75年(20歳)に全日本サーフィン選手権大会メンクラス優勝を果たすも、17歳の頃から始めたサーフボードシェイパーの道へ進む。ライトニングボルトの日本生産を長年手掛け、ジェリー・ロペスとの親交も深い。’81年には、自身のサーフボードブランド「YUサーフボード」をスタート。海外からの評価も高く、ありとあらゆる状況やレベルに合わせたシェイプで絶大な信頼を得ている。