アジアの頂点も、U-23での世界の頂点もすでに極めていた。高校時代の挫折、前十字靭帯の怪我、世界の高い壁、目に見えない“山”を何度も超え、ついに上田瑠偉は真の世界一の座も奪ってみせた。世界一へたどり着くまでの軌跡。前編では彼が力を注ぐスカイランニングについて、また、自身の走りに対し、自信から確信へ変わるまでの時間を。
世界王者のプライド
11月10日。日光はキスゲ平、天空回廊。天に向かって続くかのようなこの750にも及ぶ階段(避難小屋手前を含めると1445段)を、その3週間前に世界の頂を獲った男は、全段足を止めることなく駆け上がってきた。その後に現れるランナーが走っては歩いてを繰り返し、やっとの思いでたどり着いた表情を浮かべるのに対し、ただ1人、優雅に。
ただ淡々と、時に同じ段に足を揃え、溜まった筋疲労を抜きながら、しかし確実に一歩一歩近づいてくる。その姿は小さな基本を大切にしていることを伝えてくれているかのようだった。
『第4回 日光国立公園マウンテンランニング大会』、強者が多数出場したこのレースを圧倒的な強さで勝利。
続く2週間後のスカイランナージャパンシリーズ最終戦・びわ湖バレイスカイランでもバーティカル、スカイともに優勝。特にバーティカルでは“皇帝”宮原徹に16秒もの差をつけて勝利し、充実の1年を最高の形で締めくくった。
今回のインタビューは日光のレースの前に行ったが、その際に上田は「スカイランナーワールドシリーズ(以下:SWS)最終戦よりも緊張してます」と話していた。
その言葉は多少なりとも本心だったろう。SWSの総合優勝者が国内では負けてはいけないという思い。一方でSWSのシーズンを終え、張り詰めていた緊張感は少なからず緩んでいる。ライバルと目されるのはかの宮原。バーティカルにおいては2018年になってようやく勝てるようになった大先輩だ。その大先輩による“ジャイアントキリング”が起きても不思議ではない状況ではあった。
ファンの焦点も“世界王者VS皇帝”の1点にあったと思う。しかし、上田には油断もなければ過信も慢心もなかった。このタイミングで負けるのは何より彼自身のプライドが許さないのだろう。かかる重圧を跳ね除け、世界王者のプライドを見せつけた。
ハセツネで鮮烈なデビューを飾ってから6年、初々しい表情を見せていたあの頃が懐かしく思えるほど、今の彼は逞しい。なぜ彼はこれほどまでに成長できたのだろうか?
ホームグラウンドがもたらした追い風
今年のSWSは4月中旬、新潟県三条市を舞台とする〈粟ケ岳スカイレース〉で幕を開けた。
「『今回勝てないようなら今年も世界では通用しない』その心構えで臨みました。シーズン前、1月下旬からシンスプリントが気になりだして、その痛みを3月上旬まで引きずっていて、そこから急ピッチで調整に入ったので、不安はありました。とはいえ、ヨーロッパの選手はウィンターシーズンが終わったばかり。むしろ4月中旬はウィンターシーズン中だったりする選手もいるので、そんなに走り込んでいるわけではない。僕はホームですし、優勝以外は合格点ではなかった。勝利への執念が強いレースでした。
もし正規のルート(34km)だったら負けていたかもしれません。(残雪による粟ヶ岳山頂付近の雪崩のリスクを避けるためコース変更)23km(累積標高差2300m)と距離が短くなったことが僕にとっては有利に働いたかなと思います。距離が長くなってテクニカルになればなるほど彼らの方が有利と考えていました。当時の自分にはやはり不安の方が大きかった」。
SWSの優勝はこの〈粟ケ岳スカイレース〉が初めてにも関わらず、冷静に優勝以外は合格点ではないと語るのは、今年はここから先も各レース『TOP争いをする、できる』との考えがあったからだろう。
昨年夏に負った前十字靭帯の負傷による影響を心配したが、その心配は杞憂に終わる。幸先よいスタートを切り、以降のレースへ弾みをつけた。狙い通りというわけだ。しかし上田の脳裏にはこの時点ではまだ年間優勝を争う考えはない。「シーズン前に立てた目標は年間5位」。昨年は怪我によって棒に振った後半戦を今年はしっかり戦いきり、自分の現在地を知ることがひとつの狙いだった。