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(本記事は、2018年発売の雑誌『PERFECTDAY 04』掲載記事の転載です)

洋酒の空き瓶に残された
遠い時代の避暑の香り

日光には「歴史」と「標高」という2つの軸がある。まずは歴史から。およそ2万年前に起きた男体山の噴火が日光の地形をつくり出した。溶岩が大谷川をせき止めて中禅寺湖をつくった。湖の周りを囲む日光連山は神々の作った聖地として、1,200年以上も山岳信仰の聖地として人々に畏れられた。「日光山に小さな堂を建てて勧請せよ」。約400年前、江戸幕府を開いた将軍・徳川家康は、魂の終焉の地を日光としている。生前、家康は日光を訪れたことはなかったが、神々が集う場所としての憧れがあったのだろう。家康を奉る東照宮などの社寺を手がけた人々は日光に残り、その後も独自の文化的発展を遂げた。

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英国発祥の「紳士の遊び」であるフライフィッシングの文化は中禅寺湖に根付いた。今日でもシーズンになると全国からやってくる釣り人たちが竿を振るう。
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湖畔にある貸しボート屋レークオカジンの年代物のルアー。

もうひとつが標高だ。日光駅や東照宮のあるエリア(200~650m )、中禅寺湖(1,300m)、戦場ヶ原(1,400m)、湯ノ湖(1,500m)と、大きく分けて4つのステージがある。明治時代、この中禅寺湖周辺に多くの欧米人がやって来た。それまで、数百年にわたって国交を閉じていた日本は国際社会にとってブルーオーシャンだった。

ただ、困ったことがひとつあった。夏の暑さだ。明治生まれの詩人・萩原朔太郎は随筆『秋と漫歩』の中で「元来日本という国は、気候的にあまり住みよい国ではない。夏は湿気が多く、蒸し暑いことで世界無比」と記している。日本より涼しい地域から来た欧米人にとって、当時の東京の夏はいかに暑かっただろうか。

欧州文化にバカンスというものがある。海や湖の畔にある避暑地で、食べて、寝て、遊んで英気を養う。彼らが目を付けた場所が中禅寺湖周辺だった。標高が高く、関東にいながらにして東北地方や北海道並みの涼を得ることができたからだ。のどかな湖面、その先にある山々にそれぞれの故郷を見たのかもしれない。大正時代末には40戸を超える別荘が造られ、そのほとんどがイギリス、イタリア、フランス、ドイツ、ベルギー、トルコ、スイス、カナダといった国々の大使館所有の建物だった。「夏には日光に外務省が移ってくる」と言われたほどだ。

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思い出を語る小島さん。

「うちにはクーラーはありませんよ」。湖畔で100年続く酒店を営む小島喜美男さんは、中禅寺湖周辺は夏の暑さとは無縁だと笑う。2階の居間に涼しい風が抜けていく。戦後生まれの小島さんだが、幼少の思い出にアメリカ軍兵士が登場する。1945年から1952年まで日光観光ホテル(現・中禅寺金谷ホテル)は米軍に保養所として接収されていた。兵士も夏はつらかったのだろう。

「兵士は子どもたちをかわいがってくれましてね。僕らにマリリン・モンローの絵を鉛筆で描いてくれたりして。彼らは飲んだウイスキーの空き瓶を、ホテルの裏に放り投げていて、山になっていた。当時の酒は量り売り。その瓶をきれいに洗い、旅の人にあげると喜んでいたね」

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小島さんの倉庫に保管されていたウイスキーの瓶。

物置に保管していた酒瓶を見せてくれた。20年ほど前、開けてみると甘いウイスキーの匂いがしたそうだ。遠い時代の避暑の面影を酒瓶から見て取れた。

世界に知られるNIKKO
外国人に愛される日光のこれから

日光が外国人に注目された原因のひとつが、通訳官、後の駐日英国公使であるアーネスト・サトウだろう。佐藤愛之助(または薩道)という別名を持ち、日本文化に精通していたことから、日系人と誤認されることがあるが、“Satow”という名字を持つ英国人だ。サトウは1872年春にはじめて日光を訪ねた。2年後の秋にも再度訪れ、見聞をまとめた『日光案内』という42頁の小冊子を発行している。おそらく英文では最初の日光案内本だと考えられる。関東、甲信越、関西など日本各地に旅した内容も『中部・北部日本旅行案内』(1898年)として出版しているので相当の入れ込みようだ。なかでも中禅寺湖周辺を大変気に入ったようで、日清戦争後の駐日公使時代(1895~1900年)には、中禅寺湖湖畔に別荘を持っていた。別荘から登山や植物観察の散策に出たという。1906年、日本を去ることとなったサトウは船の出発が遅れるとわかると、すぐに日光を訪れ、1週間の山歩きを楽しんでいる。

もう一人、忘れてはならないのが『日本奥地紀行』の著者である紀行作家のイザベラ・バードだろう。彼女もまた英国人であり、日本滞在中にはサトウとも交流を持った。通訳・案内人の伊藤鶴吉は、わからないことがあると「サトウ氏にお訊ねになるがよいでしょう、あの方ならあなたに教えてくれますよ」とバードを煙に巻いたという。明治期の日本を旅した2人が、愛情を持って日光を記録し、伝えていくことで日光はNIKKOとなり、世界へ伝播していった。

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日光の滝が紹介された金谷ホテルの古いパンフレット。(日光市立図書館蔵)

現在の日光も外国人に人気がある。東照宮近くにある食堂〈山楽〉で店主の古田秀夫さんに話を伺っている間、入ってきた客はすべて外国人観光客だった。7割が訪日外国人だという。だが、古田さんは「このままでは日光は終わる」と断言する。「私は7年前に日光に戻ってきました。その時、あまりの寂れ具合に驚いた。二社一寺(二荒山神社、日光東照宮、日光山輪王寺)があるから人は来る。2020年までは外国人観光客も来るでしょう。しかし、日光は努力をしてこなかった」と、未来を不安視する。麓の日光駅まではJRや東武鉄道で来ることができるものの、中禅寺湖やその上を目指すには路線バスやタクシーを利用するしかない。

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湯ノ湖の南端にある高さ70m、長さ110m の湯滝。

現在、多くの観光客が車を利用して日光にやってくる。年間1,200万人も訪れる観光客の多くが車で来てしまえばどうなるだろうか。大きな駐車スペースはないために慢性的な交通渋滞に悩まされているが、解決方法がないのが現状だ。古田さんは欧州で生活をした経験もあり、数々の観光地を見てきた。「車が入ることのできる区間を決め、その先はトロリーバスを走らせるなど、欧米に学ぶしかない」。これは夢物語ではない。名峰マッターホルンを有するスイスのツェルマットはガソリンを使用する車の乗り入れは禁止で、区域内を走るのはすべて電気自動車。観光客はロープウェイとゴンドラで移動する。交通渋滞も空気汚染もなく、結果的に観光客にとっても住民にとってもよい環境を生んだ。「まずは小さなことから」と、古田さんは店でマウンテンバイクの貸し出しを始めた。坂の多い日光では自転車文化はなかったが、アクティブな外国人観光客に乗ってもらい、地元の人の気持ちを変えていこうと考えた。

「中禅寺湖南岸は歩くと数時間のコース。特別区で山には自転車が入れない。だけど、そこに自転車が入って行けたら、きっと変わっていくと思う」。日光はなにを残し、どう変わるのか。現在の旅人は、未来のサトウやバードとなるのかもしれない。彼らの胸にはなにが残るのだろう。