筑波山の中腹にある知足院中禅寺のシンボルといえば、大御堂の脇にそびえる、樹齢約300年の3本のスダジイ。幹周りは約7.5m、樹高は約20m、“巨木の宝庫”といわれる筑波山でひときわ威容を誇る御神木である。そのスダジイの幹を木槌で叩いているのが、樹木医の片岡日出美さん。寺からの依頼を受け、“樹木医の三種の神器”こと木槌・鋼棒・ルーペを駆使して古木の診断を行っているところだ。
「診断はまず、“樹木医の三種の神器”、木槌・鋼棒・ルーペを使い、打診・触診・視診を行います。木槌で幹や露出根を叩き、打音の違いによって中の状態を判断します。健全な部位は『コツコツ』と詰まった音がするのに対し、中が腐っていると『ポコポコ』と乾いた音がするんです。鋼棒を根本の土や木の割れ目に差し込んで中の腐れや空洞をチェックしたり、ルーペで葉や虫を観察したり。アナログと思うかもしれませんが、人間も病院の診察と同様、このプロセスが大切なんです」
3本あるスダジイのうち1本は大きくかしいでおり、横に大きく張り出した枝のなかには弱っているものもちらほら。片岡さんの初見の診断は「幹の中心が腐っており、枝葉の荷重に耐えられず倒木するリスクがある」というものだった。片岡さんはこの診断をもとに中長期的なメンテナンスや管理計画を立て、それに沿った治療や伐採の実施までをサポートする。今回のスダジイについては、落枝の危険性がある枯れ枝を撤去し、支柱を設置して横に張り出した枝を支えるとともに、幹の外側の健全な部分の厚みを増やすよう、土壌や日当たりなど生育環境を改良する――という治療計画をまとめる予定だそうだ。
このように街路樹や公園、寺社仏閣、商業施設の樹木を診断して落枝や倒木の被害を防ぐ治療を施し、樹木にまつわる安全管理を行うのが樹木医だ。
女性樹木医の活躍をサポートしたい
片岡さんは小学校の環境学習の授業をきっかけに環境問題に興味をもつようになり、高校卒業後、筑波大学の生物資源学類で林業の社会経済学を学んだ。在学中、交換留学生として渡ったフィリピンでは森林破壊の現場を目の当たりに。その原因が、海外から輸入する木材に依存している日本にも原因があると知り、自国の森林に向き合いたいという気持ちが芽生えたという。大学卒業後は大手林業メーカーに入社、木材流通部門に携わった。二元論的な考え方に囚われていた学生時代は、「木を切ることは悪、環境破壊の一部であると考えていた」というが、日本の木材自給率の低さにまつわるさまざまな事情を知るうちに、誰かが一方的に悪いのではなく、立場によってそれぞれの事情があるという柔軟な考え方にシフトして現在に至る。
樹木医を目指したのは、女性として、ライフステージが変わっても働き続けられる技術やスキルを身につけたいと思ったから。出産を機に退社し、樹木医見習いとしてのキャリアをスタート。2020年に林業出身の樹木医、森広志さんとともに、森林・林業・樹木の管理を行う〈HARDWOOD〉を設立した。
「同じ樹木を扱うフィールドにいるのに、林業出身の森と私ではアプローチが異なります。例えば、都市の樹木を伐採した場合、幹も枝葉も産業廃棄物としてお金を払って処理してもらうものという常識が業界にはありますが、森は、幹は丸太という商品であり市場に売るもの、枝葉は次の材をつくる土壌の苗床になる。すべては資源になるという考えです。だからできるだけ、現場で発生するものを生かそうとする。そういう、経営的な視点が私にはとても新鮮でした。一方で、樹木医は防災や教育、福祉といった多彩な視点や樹種ごとの細かな配慮などをもって安全管理を行います。林業のノウハウ、現場力と、樹木医の知識や都市樹木で培った気配り。それぞれの良さをかけあわせていることが〈HARDWOOD〉の強みだと感じています」
樹木医を含め、林業や造園の業界では女性の従事者はまだまだ少ない。樹木医を目指す女性が増え、かつ、長く働き続けられるような取り組みや人材の育成を積極的に進めている。
「このスダジイは、地元の造園会社から『うちでは手に追えないから』と紹介していただいたんです。筑波山神社の御神木もうちで見させていただいておりますが、大切な樹木を診断・治療できる立場にいることに大きなやりがいを感じますし、手をかけて処置した樹木から若芽が芽吹いたとき、樹木医という仕事の意義を実感します。だからこの職業を目指す人が1人でも増えてほしいし、それが女性なら、出産や育児というライフステージの変化を乗り越えて長く続けてほしい。価値ある職業を次世代に受け継ぐお手伝いができればと思っています」
サウナ、キャンプ……新しい価値観で森を活用する
樹木の安全管理とは別に〈HARDWOOD〉が力を注いでいるのが、森にまつわる新たな価値の創造だ。高知県梼原町で自治体とともに進めている「梼原町立太郎原公園再生計画」は、梼原町の面積の9割を占める森林を木材の生産の場とするだけでなく、新しい価値観で活用し、それにまつわる人材を育成して地域に貢献しようというもので、例えばトレイルランニング、マウンテンバイク、アウトドアサウナ、キャンプなどアウトドアアクティビティのフィールドとして森を活用させるといった構想がある。
「そのためにもスギやヒノキの人工林を広葉樹の混交林にしようという計画があります。町民向けに全体アンケートを行ったところ、多くの方が針葉樹一辺倒になってしまった山を、広葉樹の森に戻していきたいと答えました。加えて、広葉樹の森は針葉樹に比べて明るく、人寄せの仕掛けを作りやすいのです。人間にとって現実的な利用があれば森は適切に管理されます。そこから収入を得ることができれば、山主にも林業従事者にも地域にも還元することができます。また、利用者にとっては日本の森を自分ごとに捉えてもらうきっかけにもなります。業である林産に収入を求める仕組みだけでは限界がありますが、様々な利用や遊びと掛け合わせる、バイオマス発電により森の資源で電気をまかなうといった仕組みをつくれるかもしれません。それぞれの森に合った新しい価値観を創造することで、人と森のよりよい関係を築いていけるはずです」
緑陰で過ごす至福のひとときを
はたして、片岡さんにとって“森とのよりよい関係”はどんなものだろう?
「木も人も、どちらにとっても生きやすいバランスを探っているところです。それに加えて、こういう環境に身をおいていることもあり、少しでも日本の山や林業にお金を還元できる選択をし続けたいと考えています。起業前のことですが、自宅を新築するにあたって国産の無垢のヒノキ材をフローリングや天井に使いました。当時、森が勤めていた伊豆の林業会社に木材の伐採、製材、加工までをお願いして実現したものです。30代、40代になると家を建てようとか家具を新調しようという方もいらっしゃるかもしれません。そんなとき、国産木材を選択肢に入れてもらえるとうれしいです」
森はすべての生き物にとって欠かせない存在だけれど、森から遠く離れた都会の暮らしのなかでその大切さを見失しないがち。そんなときは木陰でほんのひとときを過ごしてみてほしいと片岡さんは言う。
「多くの人が木陰の心地よさを忘れてしまっていますが、今日のような天気だと木陰に救われることもしばしばです。木陰のことを私たちは“緑陰”と呼んでいて、大きくて心地よい緑陰ができるよう、枝が横に張り出すような空間づくりを心がけることは多々あります。
ぜひ、木陰でぼーっと過ごす時間をもってみてください。その心地よさに気づくことが、森を自分ごとに捉える第一歩だと思っています」