動機づけは数あれど、やる気は自分からしか沸いてこない
周りの仲間を見ていると、レースがなくなり途端に練習を止めてしまった人がいる。さらに自粛になって完全に走らなくなってしまった人、その真逆で狂ったように走りまくりめちゃめちゃ走力を上げた人、ここぞとばかりにスピード練に徹した人。食っちゃ寝で太った人、飲み会がないからと思い切ったダイエットでみごとに痩せた人。完全なる二極化だ。
ランニング(トレイルランニング)を続ける理由は何ですか?
そう聞かれたら何と答えるだろう。目標レースがあるから? レースに出るのが楽しいから? 仲間と走りたいから? 友達を増やしたいから? 美味しいものをたべて呑んで体型維持したいから? かっこよく、かわいくなりたいから? 限界に挑戦してみたいから?答えはひとつじゃなくて良いし、動機はいくらでもあると思う。
でもそのほとんどの動機づけが、ウイルスによって断たれてしまい、モチベーション迷子になっている人が多いように思えた。こんな時に“がんばらなくてもいい”というのもアリだと思う。休息期間にしちゃえばいい。賛成。一方で、がんばらない選択をしたというよりも、落ち込んで戦意喪失あるいは走り甲斐を失くしてしまっている姿は寂しげだった。結局のところ、モチベーションやテンションを動機(環境)に頼り切っていると、ふとした時にからっぽになってしまうのかもしれない。
わたしは「走るのが好き!」「山が好き!」という自分の根底にあるものは揺るぎなく、動機や環境要因に振り回されやしない。だから走り続けてきたのだと思う。でも、わたしも例に漏れずなんでこんなにがんばっているのかわからないと思うことが何度もあった。今年のトレーニング計画は、目標から逆算して組まれるはずだったのに、成果を表現する場(レース)がない。わたしにとって100km、100マイル走るのはレースじゃなくても良いけれど、前代未聞の「速く走る」目標をただ自分で測った記録だけで「やり遂げたぜ!」と言える自信がない。というか、近所の河川敷の何kmを何時間何分で走ると決めたところで、それに向かってがむしゃらに頑張る自信がない。たくさん時間をかけて努力した成果は、やっぱり周りの人に認められて、祝福されて、輝かしい場で手にしたい。
今はまだ、いつどこでレースができるかわからない。それにこれからの時代、こんなことが当然のように起きるのかもしれない。趣味でも、仕事でも、そう。その度に心折れてしまうのか。動機を失った時、だれにも見られず認められず共有できなくなった時、それでも好きでいられることって何だろうか。それでも情熱を注げることって何だろうか。そういうものを見つけている人はからっぽにならならずに自分らしさを保っているように見えた。
わたしはやっぱり、走ることが好きなんだ。
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