常人からすると、どうやってそこに留まっているのかすら理解できない、垂直に近い 氷と岩の壁。己の知恵と技術と体力。そして持てる限りのハートを使い、それを登る。 そびえ立つ高みの先にアルパインクライマー、横山勝丘はいったい何を見ているのか。
クライミングを通じてしか感じとれない未知の領域
アルパインクライミングという行為は、それをやらない人間にも、不思議な感動をもたらしてくれる。だが、同時に理解しがたい部分も多い。まずもって、死ぬかもしれないのだ。人里離れた険しい山岳地帯で行われるため、気象の影響なども受けやすく、冒険的要素が強い。横山勝丘は、なぜ極地に赴くアルパインクライミングでなければならなかったのか。
「未知というものに強く惹かれるんです。山を始めた頃から、誰も行ったことがない場所を見てみたいという気持ちが強かった」
アラスカ・ハンティントン南西壁「志士」初登、アラスカ・ブロークントゥース北壁初登、パキスタン・K7西峰南西稜初登など、登攀歴には“初”の文字が多く並ぶ。 2010年のカナダ・ローガン南東壁初登では優れた登攀に贈られるピオレドール賞も受賞した。
2012年からパタゴニア遠征を始め、すでに7回。2013年からはフィッツ・トラバースへの挑戦を始めた。パタゴニア社のロゴにもなっている印象的なスカイラインをなぞる。切り立った7つの頂を踏む、全長約6kmのロングラインで、約5日かかるこのルートの高度差は約 4,000m。長年不可能とされてきた最高難度。
「その未知性や難度はもちろん、純粋にラインとして美しい。自分が登りたいと思うラインに明確な基準はないんですが、フィッツ・トラバースは見た瞬間に惹かれました」
未知という意味では、横山にとってはパタゴニアという土地特有の環境もそうだった。風は強烈で、南極が近い影響で荒天率も圧倒的に高い。
「実は7回のうちまともにトライできたのは2回だけ。隙を突いて行く感じです。最近では氷河が目に見えて後退している関係で、アプローチも大きく迂回しなければならない。温暖化の影響か、地形もだいぶ崩れてきています」
横山が2度目の挑戦をするためにパタゴニアを訪れていた2014年2月。フィッツ・トラバースはトミー・コールドウェルとアレックス・オノルドの2人によって達成された。
「それを聞いたときは放心状態。競争しているわけではありませんが、悔しくないはずがない。そのために1年間、血を吐くような鍛錬を重ねてきたわけですから。でも、そのとき思ったんです。ライン自体は未知ではなくなったんですが、それを達成したときに僕の心がどう動くのか。そういうところも含めての未知を、クライミングという行為を通じて知りたいと」
良いも悪いも結果すべてが自分自身の行為の反映
輝かしい登攀の裏では、数々の危機的状況も味わってきた。雪崩に巻かれたり、滑落して脳挫傷という重傷を負ったこともあった。九死に一生を得る経験を何度もしている。そんな目に遭っても行く。その不屈さも、また常人には理解しがたい。
「危険を求めて行くわけでは絶対にありません。『ここを登りたい』というラインの存在があって、それに引き寄せられてしまう。そういう場所が僕の場合、危険なことが多い。危険は勝手についてきてしまうものという認識です」
2019年2月。横山はフィッツ・トラバースの挑戦中に事故に遭う。懸垂下降中に長年ザイルを繋いできたパートナーが落ちた。
「いや、僕のミスで落としてしまったというのが正確です。そして瀕死の重傷を負わせてしまった……。パートナーが落ちたとき、一瞬頭が真っ白になって『なんなんだよ、これ』と思ってしまった。でも、そのときに思考停止になったらすぐに死にます。そういう状況下でいかに冷静に、迅速に対処できるか。これが生死をわける世界です。“ 運が良い、悪い”というようなことは、極論を言ってしまえばアルパインクライミングの世界にはない。すべてが自分の行為の結果でしかない。昨年の事故にしても、それを未然に防ぐ方法はいくらだってあったんです。想定外という言葉は山では通用しない。それを強く感じたのも、この前のパタゴニアでの事故です。その状況で想定外という言葉が出かかってしまった自分は、まだまだなんだぞ、と強く言い聞かせています」
横山が極地で見ているのはそういう世界なのだ。すべての結果は自分の行為にかかっている。そしてそれを誤れば、ダイレクトに自分の生命に跳ね返ってくる。
「良い面も悪い面も、結果のすべてが自分ごととして考えられる。そのことこそが、僕が考えるアルパインクライミングの核です」
とはいえ、恐怖心だって尋常じゃないはずだ。それでも行く。あえてもう一度聞きたいと思った。なぜ行くのか。
「なぜ、とはよく聞かれます。去年の事故もあって、いま山に行くのは正直言って怖いです。事故の記憶は1年経ったいまでも鮮明です。そのときの風景、音、匂い、すべてが生々しく残っています。この記憶は相当長い時間薄れないと思います。死についてこれまで以上に意識するのは、家族ができたことも大きく関係しているのは間違いないです。死ぬことが怖いのではなく、死ぬわけにはいかない」
でも……、とまっすぐな視線でこちらを見据えて横山は続ける。
「本当に行きたいと思う場所が見つかったとき、僕はまた行ってしまうと思います。その理由はなんなんだろうって自分でもよく考えますが、答えはでない。ただ、この行為をやめたら自分が自分ではなくなってしまうと思っています。考えすぎて動けなくなるくらいなら、自分自身のやりたいと思うことに全エネルギーを燃やし尽くしたほうが幸せなはずだと、いまは思っています」
“登りたいから”。すべてはシンプルなこの言葉に集約される。誰に頼まれたわけでもないし、賞などが欲しくてやっているわけでもない。ごくごく個人的な行為だからこそ純粋。 そしてその純粋さに人は心を打たれるのだ。
横山勝丘
1979年生まれ。パタゴニア・アルパインクライミング・アンバサダー。日本を代表するアルパインクライマーで、2010年のカナダのローガン南東壁初登では、登山のアカデミー賞と言われるピオレドール賞を受賞。2013年からパタゴニアのフィッツ・トラバースに挑戦を続けている。