今日の登山ブームにあっては、山を登ることが楽しいという感覚は比較的平易に理解できる。しかし西洋的なスポーツあるいはレジャーとしての登山という概念が持ち込まれる前の日本では、登山とは第一に苦痛を伴う修行や宗教的な行いであり、第二に木樵や猟師が生計を立てるための手段であった。登山は喜びに満ちたものだと我々に教えてくれたのは英国の外国人宣教師だった。彼の自然へのまなざしは、優しく、尊い。
(本記事は、2018年発売の雑誌『PERFECTDAY 04』掲載記事の転載です)
暗闇のなか、急勾配のトンネルを抜けるとそこには別世界が広がっていた。上高地とはよく言ったもので、松本の町から自らの足を頼りに上がってみれば、そこは高地のさらに上、上高地だと思い知らされる。雪を戴きながらどんと目の前にそびえる穂高連峰は威容と気品に満ちている。この地から、登山の喜びを日本に伝えた外国人がいた。1861年英国・ダービー生まれの宣教師、ウォルター・ウェストン。彼が日本の山に残した足跡を探して、梓川沿いに上高地を歩いた。
1888年に初めて日本を訪れたウェストンは、宣教師として神戸に居を構えながら日本の山々を登り始める。在英時代から彼の趣味は登山だった。「アルプス黄金時代」と呼ばれる、人類がヨーロッパアルプスの峰々を制覇していった時代に先導的な役割を果たしたのが英国のクライマーたちであり、1865年に人類未踏のマッターホルンが英国の山岳パーティによって初めて登攀されたとき、ウェストンは4歳であった。ヨーロッパの人々はこの頃すでに山に挑み踏破することを目的とした、スポーツとしての登山を見出していたことになる。あるいはこうした登山観は、自然を制圧することに長けていた近代西欧人ならではの発想と言えるかもしれない。これは、古くから自然と共に生きてきた日本人にとって理解できる考え方ではなかった。山とは畏怖すべき大自然であり、信仰の対象であり、聖なる場所だった。実際、日本の山を最初に登った人々の多くは修験者や宗教家であった。彼らは山を登ることで信仰を示す「登拝」を行っていたのであり、あるいは遠くに見える山を信仰する「遥拝」という形態が示すように、山とは登るものではなく拝むものだったのだ。拝む、という言葉が強すぎるなら愛でる、でもよい。
日本のアルプス
ウェストンに先立って、日本の山々を歩いた英国人ウィリアム・ガウランドは、日本中央の山脈を「日本アルプス」(“Japanese Alps”)と命名した。「日本考古学の父」と呼ばれるガウランドは日本の古墳を巡って各地を渡り歩いたが、ウェストンはとりわけこの日本アルプスの山々に魅せられていた。1891年に初めてこの地を訪れて以来、幾度となく登山を行い、英国へ帰国後にその集成として『日本アルプス 登山と探検』(“Mountaineering and Exploration in the Japanese Alps”)を発表する。この本によって日本アルプス、そして登山拠点としての上高地が広く英国人たちに知られることになる。のみならず、この本を読んだ日本人随筆家の小島烏水と岡野金次郎との出会いのきっかけとなり、ウェストンは両名に山岳会の設立を促した。今日まで続く日本山岳会はこうして生まれ、日本の近代登山が醸成されていった。ウェストンが日本近代登山の父と呼ばれる所以である。
ウェストンのまなざし
山には遅い春が来ていた。梓川に反射する新緑の色が眩しく輝いている。ウェストンの上高地の常宿〈清水屋〉、今日は上高地ルミエスタホテルとなった建物の隣にウェストンのレリーフが掲げられている。その柔和な表情から受ける印象が、『日本アルプス 登山と探検』に表れている彼の自然への優しい眼差しとぴたりと一致した。確かにウェストンは西洋式の近代的な登山を日本に紹介したが、スポーツとしての登山というよりも、純粋な自然の美しさに没入できる方法としての登山を日本人に改めて教えてくれたのではないか、と思った。それこそ、山を愛でるための登山を。100年以上も前の書物に綴られた瑞々しい描写は、上高地において今も色あせず、どこか自然に対する畏敬の念が感じられる。「穂高山の青白い花崗岩の絶壁と雪が、まぼろしのようにそして雄大に浮かび上がっている。(中略)誰一人として、この厳粛な沈黙を破ろうとはしなかった」(『日本アルプス 登山と探検』 第5章)
1933年に邦訳されたこの本が日本人にもたらしたものは、小手先の登山技術ではなく、山を愛で、敬意をもって自然を見つめる眼差しの大切さだったのかもしれない。澄んだ空気の中、目の前の山を見上げてみる。上高地はかつて神河内と呼ばれていたことを、神々しい穂高連峰の麓で思い出したのだった。