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前回、ちょっと細かく書き過ぎたために、
今回は本当に3行くらいでいきたいところ。

いやいや、スポーツ的(ベンチプレス的)には
やっぱりさらに負荷をかけるべきか。

スポーツについて高校卒業後から20代は、
中高の部活のように『用意されている環境』から、
する場所(& 機会)を『探す』、『作る』ということを
しなければいけないステージに突入。

また、『アウトドア』という分野にも意識的に興味を持った時期。
それがどういうものなのかという理解も含めて。

■浪人時代


しっかりとしたビジョンが描けないままの大学受験は、やはり敗退なわけで。
高校卒業後は、翌年の大学入学を目指し浪人生活へ。

それをきっかけにスポーツは、
する場所(& 機会)を『探す』または
『作る』ということをしなければならなくなった。

大学でもう少しバスケットをしたいという気持ちも出て
(もちろんサークルではなく体育会)、
来るべき日のためにスポーツジムにいったり、
社会人のチームの練習に参加させてもらったり。

また一方で、高校時代からフツフツと
湧きあがっていたサッカー熱のはけ口として、
遊びながらもチームのようなものを作って、
市のグラウンドをかりて試合をしたりした。

そして余談ですがこの年(誤差があるかも)、
自宅徒歩圏内にあったスタジアムをホームとして、
偉大なるクラブ・川崎フロンターレも誕生。

公式戦が行われれば、後半からでも
スタジアムに足を運ぶことが習慣となった。

ちなみに相撲界は、二子山部屋が圧倒的勢力で相撲界を席巻。
1996年に霧島は引退、翌年には小錦も引退した。
確か霧島が現役最後の取り組みが終わって、花道を引き上げている途中で、
小錦とすれ違う時、お互い拳をチョンってやったと思うんですけど、
その映像見て、号泣した記憶があります。今でも思い出すだけで涙が……。

■大学生


無事に大学にも受かり、みっちりとバスケットをやれる、
再びスポーツの場が『用意されている環境』に。

また大学のトレーニングジムで、
ラグビー部やアメフト部と一緒になるので、
勝手ながら余計に日々ベンチプレスに励みました。
(プロテイン飲んだり。ホエイね。)

体育会でしっかりと、リーグ戦やトーナメントも経験し、
聖地・代々木体育館でも試合ができたし(確か5ファール退場)、
4年生まではやらずに3年生のときに引退。
自分の中で一区切りついたんだと思います。

少し話が戻るけど現役中、確か2年生のシーズン終了後、
ぷらっと寄った本屋さんでわりと
その後の人生の転機となるような一冊の雑誌と出会った。

雑誌『POPEYE』の別冊でメッセンジャー(自転車便)を特集した号だった。
ロードやMTBに乗り、ストリート全開、個性的ないでたち。

これが『職業』ということにも驚き、
スケボーやサーフィンのようにすごくカルチャーな匂いがした。
そのときは単なる興味で終わったけど……。

また、この頃からアウトドア系の洋服を好んで着るように。
当時代官山のとあるアパートの一室にあった
小さなアウトドア系のセレクトショップ、確か『TRUCK』
(スペル違うかも)によく通ったっけ。(酒井さん元気かな?)

個人的にはすごく好きなお店で素敵だったし、
そこでプラナとか、そういった系統の服と出会ったわけで。

初めて海外に行ってみようと思ったのもこの頃(結構遅い)。
結局、フィリピンのすごーく小さな島で暮らす
日本人の作家さんに会いにいこうと、初めての海外旅行は、
男友達二人でアメリカでもなくヨーロッパでもなく、その場所にした。

一周20分も歩けば網羅してしまう島。
本当に色々な経験ができたけど、
特にいい経験だったのは、意外や意外スポーツ。
フィリピンは、国技(?)と言われるくらい
バスケットホールが盛んで、
その小さな島でも夕方になれば島の若者が集まって、
暗くなるまで島唯一のバスケットコートで試合をした。

エントリーフィーは確か3ペソ、観客は島民全員。
皆トリッキーで、しかも真面目、身体能力も半端ない。
裸足なのに‥みたいな。1週間くらいの滞在だったと思うけど、
ビサヤ語もよく分からなかったけど、毎日一緒にやった。
スポーツの本当に良い一面に触れることができた旅だった。

話は戻って、部活引退後。
着ていた洋服がアウトドア的なものだったので、
ファッションだけじゃなく、どういった場所や環境で使われて、
実際にそのアウトドアアクティビティを経験したほうがいいのではと思った。

さてさて、その場合何が近道か。
自分のまわりには、そういった友達がまだいなかったので
(もちろんネットやSNSもまだまだだったし)、
アウトドア好きな人が集まる場所に身を投げるのが早いと考える。

運良く大学の最寄り駅の近くにあった、とあるアウトドアショップで
期間限定のアルバイトを募集していたので、即申し込み。
無事に受かって、イメージ通りの展開が。

鷹取山にクライミング、真冬の山形・最上川をカヤック
(強風と雹で大変でした)&キャンプ、登山と、
色々なチャンスに恵まれました。本当にその時のスタッフの皆さまに感謝です。

パタゴニアのスピーカーシリーズで、
石川直樹君のナイノアの報告を聞きにいったのもこのころでは……。
21、22歳くらいか。のちにお仕事で出会うことになるとは笑。

このころは、そういった知識や情報、
身体的経験を詰め込んでいった時期だった。
不思議と『深夜特急』は、通らなかったけれど。

そして、ふとあるとき、思い出したわけです。
雑誌『POPEYE』の別冊メッセンジャー特集を。
港区西麻布2-22-2のT-servの門を叩きました。
2000年3月1日かな、ボビーというあだ名が誕生した瞬間でもある。