(写真 松田正臣 / インタビュー 松島倫明)
最新号『mark07』でも紹介した「マインドフルネス」。欧米で広がるライフスタイルとしてのメディテーションは、もともと禅の文化を持つ日本でもますます注目を集めている。そこで『mark07』巻頭でも黒木メイサさんとご対談いただいた禅僧の松原正樹さんと、Google社で開発されたビジネス向けのマインドフルネス・プログラムを日本に紹介している木蔵(ぼくら)シャフェ君子さんのお二人に、改めて「マインドフルネス」と「禅」がどう繋がるのか、そしてお二人が拠点をおくアメリカでは今、マインドフルネスを通じて何が起こっているのかについてうかがった。
松原正樹
(佛母寺住職、コーネル大学東アジア研究所、ブラウン大学瞑想学研究所)
木蔵(ぼくら)シャフェ君子
(一般社団法人マインドフルネスリーダーシップインスティテュート理事)
新しいアメリカの仏教が生まれている
松原正樹 私はここ龍源寺で生まれ育って、大学を卒業して修行道場に入って、その後27歳でアメリカに渡りました。日本ではお坊さんなんですけれども、アメリカではどちらかというとアカデミアの人で、現在ではコーネル大学やブラウン大学で授業をしたりしています。ただここ数年、そうやって日米できれいに役割が分かれているのがなにか嫌で、アメリカでもお坊さん、日本でもアカデミアという、両方の立場をバランスよく実践しています。自分のアイデンティティの問題です。
—— 大学ではどういうものを教えてらっしゃるんですか?
松原 日本仏教や日本宗教、比較宗教、漢文、それに人物伝にすごく興味があるのでそういった授業もします。もともと私は文化、伝統、歴史というものがどうやって作られてきたかに興味があるんです。 日本にはありませんが宗教史学という文化、伝統、歴史の創生・維持・発展プロセスに対する宗教社会学的アプローチですね。人間の創造物として、すべては人間から生まれた発明生産物ですので。宗教もそうですし、今私たちが注目している禅だとかマインドフルネスというのも明らかにそうです。
禅はインドで生まれて中国、チベットへと伝わり、日本に渡って、それから今度は欧米へ広がっていきました。その時にどのように受け入れられてきたのかと考えると、すべて同じ形で伝わったわけではありません。そういったところに大変興味があって、活動しています。
—— 仏教が日本からアメリカに渡ったことと、かつてインド、中国から日本に渡ってきたという歴史的な経緯には、何か相似的なものはあるのでしょうか?
松原 日本に帰ってくるとよく、「アメリカで最近マインドフルネスというものが流行っているけど、どうなんだ?」とか、「アメリカの禅はどういうものだ?」と訊かれるんです。私はいつも「あなたはどう思ってるんですか?」と返すんですが、「あんなものは禅じゃない」とか、「“ZEN”と私たちの禅は違う」という答えが返ってきます。マインドフルネスについても、「もしかして禅の一部なんじゃないか」とか「あれはやっぱり仏教じゃない」とかいろいろなんですけれども、私はそうは思いません。そういう意味で、私はまったく反対勢力なんです(笑)。
私に言わせれば、インドで生まれた仏教が中国へ渡った時に、中国で受け入れられた仏教は仏教じゃないと絶対インド人は思いましたし、中国から日本に渡った仏教は、中国人にとってみれば「あんなものは絶対仏教じゃない」って思ったはずです。そして今、日本から、あるいはアジアから仏教がアメリカに渡って、アメリカがどういうふうに仏教を独自の精神性や文化と一緒に「新しいアメリカの仏教や精神性」として昇華していくのか、その過程を私たちは見ていると思うんです。
—— 実際に大学で教えられていて、松原さんのところに来られる学生さんは仏教や禅をどういうふうに捉えているんでしょうか?
松原 私がいつも気を付けているのは、最初から禅ばっかりを教えてしまうと、かえって宗派的な教えになっちゃうんです。それよりむしろ、仏教という大きなお山があって、私たちは数ある登り口の1つである禅というものを学びますよ、というふうに教えるんです。
それで、学生たちは書いたり本を読んだりしてくるわけなんですけど、本当に分かっているのかなってずっと考えていたんです。それよりも、実際に日本に一緒に行って、一緒に坐禅をして、一緒にものを食べて、一緒に触って、一緒に匂いをかいでとやったほうが、本当に体験として残って、本当の文化というのを分かってくれるんじゃないかと思って、実際にコーネル大学の学生を鎌倉に連れてきて、お寺で修行をしてもらうプログラムなどを行なっています。
一過性の流行では終わらない
—— 木蔵さんもそういった意味では文化の橋渡しをしていらっしゃいます。今、アメリカと日本を行き来されながらその状況をどのように見てらっしゃいますか?
木蔵シャフェ君子 初めはアメリカのマインドフルネスのコンテンツを日本に持ってくる、特に Googleで開発された「Search Inside Yourself(SIY)」 という、言ってみればビジネス向けのマインドフルネスのなかで一番信頼性が高く広まっているプログラムをぜひ日本に届けようと、会社を立ち上げてやっています。85パーセントがそうしたコンテンツを日本に持ってくることですが、残り15パーセントは、日本文化をアメリカに持ってくることで、喜ばしいことにだんだんと双方向になってきました。Googleのマインドフルネスのグループでメディテーションのガイドをやったり、松原さんに来ていただいて茶道体験をやったりしています。あと、藤田一照さんという曹洞宗の素晴らしいお坊さんがいらっしゃるんですけれども、その方をFacebookやSalesforce、それにスターバックスの本社で講演いただくようなコーディネーションもしています。
日本のビジネスシーンにおけるマインドフルネスも、会社を立ち上げた当時から比べたら大きな進展があります。3年前に始めた時には、「マインドフルネス」という言葉を知っている人といったら10人中1人か2人でした。それが今では逆転して、知らない人が「10人中1人か2人」という感じになってきています。
松原 完全に変わりましたね。
木蔵ガラッと反転しています。それと同時に、アメリカ国内ではマインドフルネスの流れ自体がだんだんと定着していると思います。いっときの流行りとしていずれ廃れていくのかなという懸念もあったのですが、どんどんと採用する企業が現れ、SIYのプログラムに興味を持ってコンタクトをしてくる企業が着実に増えています。アメリカにおいてもマインドフルネスはまだまだ伸びしろがあるんだなと思います。
もう1つ、定着化の証拠として興味深い最近の動きが、『サーチ・インサイド・ユアセルフ』(英治出版)と『JOY ON DEMAND』(NHK出版)を書いたチャディー・メン・タンさんが、つい10日ぐらい前にバチカンに呼ばれて行っているんです。世界平和を目指すいわゆる社会起業家の方々が世界中から何人か呼ばれていて、彼の場合はマインドフルネスと仏教を使って世の中の平和を達成しようとしていることで呼ばれたわけです。これもマインドフルネスが世界レベルでかなりの市民権を得た証しなのかなと思います。
『たった一呼吸から幸せになるマインドフルネス JOY ON DEMAND』
[著] チャディー・メン・タン[監訳] 一般社団法人マインドフルリーダーシップインスティテュート[訳] 高橋則明 定価:1,944円(本体1,800円) 発行:NHK出版
—— アメリカにおいてマインドフルネスは企業が取り入れることで先導している印象もあります。SIYも企業向けのプログラムですよね。2014年にタイム誌が「マインドフル・レボリューション」という特集をやってからのこの3年ほど、企業文化と一般の生活者と、どちらがこれを牽引しているんでしょうか?
木蔵 両方ですね。SIYを広めているSIYLIという団体があるんですが、そこのプログラムとしては、B2Bの企業向けがあって、それからパブリック向けのプログラムというのがあって、さらに講師養成という別なプログラムがあります。その中ではパブリックプログラムも特に大きな役割を担っていると思うんです。
特に今は、地理的にも世界中でバッと広まっています。今年はドゥバイでプログラムをやったり、中国本土でも来年頭にはやることになりそうですし、アフリカでもやろうとしています。一方でパブリックプログラムはアメリカ国内でもどんどん広がっていて、今まではカリフォルニアかニューヨークかっていう感じだったのが、内陸のデンバーとか中西部のミズーリ州などにも広がってきています。
つまり、最初は意識高い系の人たちが来る、あるいはGoogleやコムキャストといった先進的だけれど競争が激しくて皆さん疲弊してきているところがやっていたのが、より一般化しつつあるということなのかなと思います。そういう意味では、一過性の流行で終わらないということでちょっと安心しました。
アメリカで「禅とマインドフルネスの違い」なんて訊かれない
—— 逆に木蔵さんの場合、禅との関係とか、これは禅なの? 禅じゃないの? といったことをアメリカではどういうふうに訊かれたりしますか?
木蔵 実はその質問は日本のほうが訊かれるんです。アメリカでは訊かれないです。というか、アメリカでは別に何にルーツがあるかということはあまり気にしないです。自分にとって役立ったり自分にとって興味深かったり面白ければいいので。
—— プラクティカルなんですね。
木蔵 そうですね。日本に来るとガンガン訊かれます。お坊さんから訊かれたりとか。
松原 私もそれは同感ですね。アメリカにいると、マインドフルネスをやってきた人から「で、正樹は禅だよね。どう違うの?」っていうふうには聞かれますけど、マインドフルネスはマインドフルネス、禅は禅でどんどん受け入れられているような気がしますよね。でも日本だと、「正樹さん、最近マインドフルネスのほうに偏ってない?」とか(笑)。
木蔵 偏るとかそういう言い方がもう(笑)。
松原 そうそう。マインドフルネスと禅で、やっぱり大きな違いがあると思っちゃってるんでしょうね。
木蔵 「禅 vs.マインドフルネス」になってる。
松原 そんな感じですよね。ですから、この間も京都の臨済宗系の花園大学でマインドフルネスをテーマにした公開講演会があったんですけど、お坊さんは誰一人来ないんです。マインドフルネスあるいは瞑想を、どういうふうに日々の生活の中に取り入れていくかが私は一番大事だと思っていて、たまたま今回はそれがマインドフルネスというテーマだったわけですが、花園大学の学長さんなど登壇した方々とまず言ったことは「お坊さん誰も居ないね」と。
木蔵 アメリカで訊かれるのは禅とマインドフルネスの違いではないんです。「なんで君子はマインドフルネスを日本にもっていかなきゃいけないの? 日本には禅があるからこんなの必要ないじゃない」って言われるんです。みんな実践してるでしょ、ぐらいに。
—— 日本人はみんな禅をやってるんじゃないのかと。
木蔵 そうなんですよ。「いやいや、それはね」といって、仏教の世界とビジネスの世界には大きな障壁があってね、という話をしていかなきゃいけない現実があります。
—— 日本人の僕らが一念発起して禅寺で座禅するぞ、といった感じではなく、アメリカではそういった区別にこだわらずに実践しているということでしょうか?
木蔵 そうだと思います。あと、彼らも苦しんでいるわけですよ。マインドフルネスを真剣に取り入れている人の多くは、苦しんでいるから始めているわけです。私がもともと8年前に始めたのもそうだったんです。そういう状態であれば、別に禅であろうがマインドフルネスであろうが、その苦しみに対して答えをもたらしてくれて、自分がアクセスできる方法であることが大切ですよね。それで、やってみたらすごく楽になったりとか、希望が見いだせたりといったことがあるんですよね。
—— 実際にそれをやってきて何か変わってきたという。
木蔵 苦しみが楽になったという実感がある人が多いから、ニーズもあるし、続けている人もいっぱいいるわけです。別にファッションとかではなくて、本当に必要とされている。心の薬としてやっているわけです。あるいはフィットネスとして、不健康な心を健康にするためにやっています。
マインドフルネスに“スピリチュアリティ”はある?
—— 例えばアメリカはジョギング大国で、ランナーがすごく多いですよね。やはりそれも、健康のためとか、走ってみると頭がすっきりするとか、あとアメリカの場合は痩せたいという理由が多いのですが、そういった日常のアクティビティとして、メディテーションが受け入れられているんでしょうか? スピリチュアリティ、日本語の「スピリチャル」は手垢が付いた言葉ですが、「精神性」といった意味でのスピリチュアリティがそこには入っているのかどうか? 逆に入っていないからこそ例えばクリスチャンでも座って瞑想ができるのか? そこら辺の感覚ってどうでしょうか。
松原 その話で思い当たったんですけれども、私が思うに、大半の場合、アメリカではマインドフルネスとか禅というものを宗教という文脈では捉えてないですよね。
木蔵 そうですね。
松原 なので、クリスチャンの人も、ジューイッシュの人も、アクティビティのひとつとして、いいものだから取り入れるというような感じでどんどんやっていると思うんです。逆に、日本ではどちらかというと「精神性を高める」とかそういった言葉が出れば出るほど人が寄ってこないですね。宗教の言葉に対する壁というか、そういうものがまだあると思うんです。
木蔵 宗教かスピリチュアリティかっていうことで言うと、スピリチュアルは結構オッケーで、宗教はやっぱりアメリカでも「うちはジューイッシュだから」とか「私はカソリックだから」というちゃんとしたアイデンティティがあると思うんです。スピリチュアリティというのはどんどん模索する自由さがある世界です。しかも、マインドフルネスになると、今度は自分の心、一瞬一瞬のマインドを整えることによって、それがもちろん自分の精神性も高めることになるというのにみんな気付いていると思うんです。
—— そういった、宗教じゃないけれどもスピリチュアルな部分というものが、例えばアメリカ文化の中ではちゃんと確保できているということなんでしょうか。
木蔵 特に神経科学などのバックアップがあるから。
—— 瞑想が欧米でこれだけ広がったのも、宗教というより脳科学のバックアップがあったからですね。
木蔵 そうです。だけれども、一瞬一瞬の心を整えて、意識をしっかりと置くことによってそれを積み重ねたら、もちろん人間性や精神性も高まるでしょうね、ということは何となく分かっている。
松原 私がそこで付け加えたいのは、「人間性が高まる」など、スピリチュアルという言葉をどう定義するかにもよると思うんです。例えば英語では「meditation for X(Xのためにする瞑想)」というような言い回しがよく使われますよね。マインドフルネスは完全にsecular(非宗教的/現世的)なんだとよく説明されますが、では、どこまで現世的になれるのか。やはり自分の心の探求となると、絶対に精神性の追求になってきます。それを宗教と感じる人もいるわけで、結局はどこまで精神性というものを受け入れるかですよね。
逆に今マインドフルネスに対して批判が出ているのは、精神性なくしてのマインドフルネスというのはどういうことなんだというものです。あまりにも「secular」と言いすぎて、ビジネス化して、結局どこまで精神性というものを消しちゃうことができるのか、できないんじゃないかと。そのできなかった時に、どこまでそれを受け入れることができるのかというところが、ぶつかっているんじゃないかと思います。
—— 精神性なりスピリチュアリティというものがマインドフルネスにはないと思うか、あると思うか、というところですね。例えば新刊の『JOY ON DEMAND』の中で著者のメンさんは精神性への旅を相当突き詰めてやっていることに逆に僕はビックリしたぐらいなんですが。
木蔵 そうですね。間違いなくあります。
「瞑想というすばらしいツールをどう伝えるか」
—— SIYやGoogle的なイメージから、もっと実用的な実践の本になっているのかと思ったら、相当程度、精神の旅といった話になっています。そういうことをやっていてもあくまで非宗教的なものなのか、やっぱりそれは宗教なのか、といったところが議論を呼んでいるんですかね。
松原 私はどちらも言えないと思うんです。その人のニーズによってそれは変えればいいだけの話だと思います。そういったレンズを持って宗教としてマインドフルネス、もしくは禅をやる人もいれば、本当に禅の精神が必要だと思って企業精神に取り入れることもあると思います。
木蔵 そういう議論ですよね。マインドフルネスは「secular」なものなのか、精神性はどうなのか、そして禅との違いは何なのかという話をする時にいつも感じるのは、やはり文脈によって、例えばビジネスの人にはビジネスの言語があり、お坊さんにはお坊さんの言語があり、アメリカの文化の中ではまたそれぞれ違う文脈というのがあって、使われる言語が違うんです。例えばビジネスの人に向けて、何の目的も持たず瞑想することを強要しても、ほとんど誰もしないでしょうし、今のようには広まらないと思うんです。だけれど苦しみはそこにまだあるわけですよね。 だから、せっかく瞑想という素晴らしいツールがあるのに生かされないのであれば、それをちょっと違う言語で、ちゃんとわかる文脈で伝えるというのが、弊社やメンさんがやってきたことなんです。もちろん宗教という文脈においては「明確なゴールを持って瞑想するのは違う」というのもすごくよく分かる話です。だから文脈によって咀嚼していけばいいのを、「いや、それは違う」とぶつかっているのは、もったいない気がします。
松原 同感ですね。どこをゴールにするかというのは文脈によって違ってくるのに、それを比較しちゃって、「そうじゃないだろ」となってしまう。
木蔵 そうですね。あと、そもそも禅とは何か、マインドフルネスとは何かということを語る時に、禅の専門家である禅僧の方々の間でもいろいろな見解があるし、個々に皆さんが体験されてきたこともそれぞれ違うと思うんです。一方で私が経験しているマインドフルネスでの実践と恩恵というのも、人によってそれぞれ違います。だから、死ぬまでどんなに両方を勉強しても、一般化した比較は結局できないなと最近は思っています。
松原 禅の人間の中では、マインドフルネスというものが何か現代の新しいもので、禅というのが昔からあった古いものだというような対立があるように感じるんです。
—— そうですね。そういう文脈で語られるのを最近よく目にします。
松原 多いですよね。だから「マインドフルネスってどういうことなんだ」ってなるわけです。今の私たちの禅だって昔の禅とは違うわけだし、今のマインドフルネスだって昔のマインドフルネスと違う。 20世紀の仏教モダニズムという、西洋とアジアとの間の複雑な知的交流の結果で、「プロテスタント・ブディズム」と言われるようなものです。8世紀とか12世紀とか中世の経典を見ても、こんなこと言ってないわけです。
例えばミャンマーの禅僧で現代の私たちがいわゆる「マインドフルネス」と呼んでいるものの基本を作った方がいます。そのオーディエンスは一般の人々だったわけですよね。彼らはアビダルマなどのような難解な仏教哲学に精通していなくてもよかったし、そもそも読み書きもできなかった人たちも多かっただろうし、出家も要求しなかった。そういった人々に対して、比較的短期間にリトリートの形できることとして、マインドフルネスを編み出したわけです。
そう考えれば禅も同じです。例えば8世紀の中国禅、つまり「チャン」では、その経典を見ていくと、同じ禅(チャン)の中でも瞑想法が変わっているんです。その当時の主流のものは、懺悔業や、死体を見て瞑想したり、死について瞑想したり、不浄なものに対して瞑想したりしていたんです。
木蔵 それがチャンの瞑想だったんですね。
松原 これがメインストリームだったんです。それが変わるんですね。ある指導者たちはそこから離れて、いわゆる現代の私たちの言っているようなマインドフルネス、「一瞬一瞬」「いまここ」といったものに変わっていくんです。それはやっぱり、一般の人たちに教えていくためです。そうした指導者たちには在家のオーディエンスが多かったという記録も残っていることは偶然なことではないでしょう。
木蔵 答えは出ないと思うと同時に、こういうディスカッションはいいなと思うんです。「じゃあマインドフルネスって何だっけ」とか「じゃあ禅って何だっけ」っていうふうに、私も含めてそれぞれに携わる人たちが考えるし、模索するし、実践して取り組むきっかけになるので。答えは絶対に出ないって最初から分かっているんですけど、でも、日本に生まれてきてマインドフルネスを届ける者としては、ずっとずっと勉強したいし、比べていきたいし。
ライフスタイルの中に瞑想をどう取り入れるか?
—— 木蔵さんも『JOY ON DEMAND』の解説で書かれていたんですけれど、メンさん自身が原始仏教の原典をテキストにして20年以上実践されてきて、特にアメリカや西欧の仏教の師のもとでいろいろ学んできてますね。
木蔵 その師事してきた先生のリストがすごいですよね。
—— 自分自身がすごくコミットして実践してきたし、かつ、それをひとりでも多くの人に伝えようとしている。「禅とはこうだ。メディテーションとはこうだ」と上から目線で語るんじゃなくて、実際に一人ひとりにどんどん伝えていく作業というのが今、結構大切なのかなと思います。
木蔵 そうですね。メンさんの場合はマインドフルネスを広めることがゴールなのではなくて、一人ひとりが心の中に平和を持つことによって世界を平和にしたい、特にリーダーの方の中に平和と深い思いやり/コンパッションを届けることによって、そういう世界にしたいという思いがあります。その中で一番これは効くでしょう、というのがマインドフルネスだということなんです。
私にとっても、日本の高いスタンダードを持ちながら、その影の部分としてブラック企業になってしまったりとか、燃え尽きてしまったりとか、例えば多様性に対して非常に脆弱になってしまっている組織であることに対して、そこに一番効く方策というのはやっぱりマインドフルネスじゃないかなって思っているんです。そういう思いですね。
—— 日本ではまだまだ余地があるということですね。
木蔵 苦しみという意味ではいっぱいあるでしょうね。特に今は、もう滅私奉公なんていう時代じゃないと分かっているんだけど、でも、何となく会社のプレッシャーとしてそうやって働かなきゃいけないんじゃないかって若い人たちが思っているようなところがあって、過労死といった最近のケースもあったりするんですけれども、その時に、本当に大切なのは何かとか、本当に今自分にとって必要なのは何かといって細かく立ち止まる力がすごく必要で。その時に、やっぱりマインドフルネスを届けるのはとても大切なことなんじゃないかなと思ってるんです。
—— 松原さんも、『mark』の最新号で黒木メイサさんに瞑想を教えられていて、メイサさんはこれまで全然やったことがなかったそうですが、『mark』の読者って、日々何かしらアクティビティをしていて、単に速くなりたいとか強くなりたいというのもあると思うんですけど、もうちょっと何か心と体を整える的な、そうするともっと日々の生活が充実することを分かって実感しているから、いろんなアクティビティをしているんだと思うんです。そういうライフスタイルの中で、どうやって今の禅なりマインドフルネスなり、要するに、メディテーションをすることというのを伝えていけるんでしょうか。
松原 それは本当に私の一生のテーマなんです。禅というのは何も高尚なものとは全然思ってないんです。私たちの日常の生活の中にあってこそ禅だと思いますし、そうじゃなかったら死んだ禅だと思っているぐらいなんです。あとは、坐禅なら坐禅という瞑想が、何か山の中に行かないとできないというのであれば、それはある一定の期間が過ぎればまた山に戻っていかなきゃいけないことを意味するし、繰り返しになってしまうと思うんです。大事なのは、瞑想とか坐禅というものを日常でどう見つけるかです。
先日、黒木メイサさんと対談させていただいた時も、お互い同感したのは、いかに日常生活の中で瞑想というものを生かすことができるのか、ということでした。例えば掃除をしている時も瞑想になるし、料理をしている時も瞑想になります。何も座るということじゃなくても、心を落ち着かせるという意味であれば、メイサさんにも話していたように、1回の深呼吸でいいんです。やはり生活に根付いたものが禅だと思うんです。
木蔵 ワークライフバランスというと、アウトドアに行く時間があって、仕事をしている時間があって、というふうに分けて人生を充実させるという考え方になると思うんですけれども、本当にマインドフルな行ないを1日続けていたら、あんまり境目はないと思うんです。仕事に取り組んでいます、通勤しています、山に行きます、トレイルランしていますっていう、そのどれもが何かとても似たクオリティになってくるんですよね。
それぞれを楽しみながらも、それぞれ違う環境で違うことをやっているからこそ、例えばアウトドアでトレイルランをやっているからオフィスの中で仕事をしている時に何かが明確になってきたりとか、インドアで仕事をやっているからアウトドアでトレイルランをやった時に何かが広がっていくとか、そういう感じだと思うんです。
松原 私は、「禅はこうだ」とか「瞑想はこうだ」というふうにやってしまうと、アジアの文化のひとつとしてこの先ガラパゴス化していってしまうと思うんです。私たちが本当に考えなくてはいけないのは、本当の瞑想の意味です。それも、否応なくグローバルになっていく文脈の中で、それがヨーロッパであろうとアフリカであろうとアジアであろうとアメリカであろうと南米であろうと、誰もがアクセスできる、そういったものが必ず必要になると思うんです。そこを見つけるという意味で、マインドフルネスが非常に貢献していると思っているんです。
マインドフルネスはいまや世界中の人々がアクセスできて、それを自分たちなりに理解していくじゃないですか。でも、禅の場合って、「日本の禅を学んできた」で終わっちゃっているところがある。本当はそれを持っていってもらって、自分たちなりに昇華して、禅というものを生かしていただきたいのに、まだそういうのが見えてないんですよね。でも、マインドフルネスは一気にそこまで来ていると思うんです。だからトレイルランであったり掃除であったりクッキングであったり、いろんな場面でマインドフルネスが使えているわけです。これからどんどんグローバル化されていく中で本当の瞑想の意味を考える上で、マインドフルネスは非常に大きな貢献をしていると私は思いますね。
—— ありがとうございます。非常にいいお話をいただきました。
松原正樹(まつばら・まさき)
妙心寺派佛母寺住職。2009年米国コーネル大学でアジア宗教学博士号取得後、 カリフォルニア大学バークレー校仏教学部・仏教学研究所講師、スタンフォード大学HO仏教学研究所フェロー。現在、コーネル大学東アジア研究所フェロー、並びに大学の異宗教間対話プログラムであるCornell United Religious Workでの非常勤チャプレンを務め、ブラウン大学瞑想学部フェローであり、千葉県内房の佛母寺住職。Google本社、Virgin America本社などでも禅、茶道を伝え、日米を行き来しながら、実用的な「禅マインドフルネス」を伝える橋渡し的な役割を果たす。
木蔵シャフェ君子(ぼくら・しゃふぇ・きみこ)
一般社団法人マインドフルネスリーダーシップインスティテュート(MiLI)理事。ICU卒、ボストン大学でMBAを取得。外資系大手企業で多数のブランドマネジメントを手がけたあと、2000年より渡米・独立し、コミュニケーションとリーダーシップについての講師・コーチとして、各国で講演活動を行う。2007~2013年、医療コミュニケーション研修会社経営。2013年、MiLI創立。日本人初のSIY講師の一人として認定され、グローバルな人脈と情報を日本に橋渡しする。著書に『世界のトップエリートが実践する集中力の鍛え方』(共著)、監訳に『サーチ・インサイド・ユアセルフ』『JOY ON DEMAND』など。
集中力を高め、ストレスを減らし、思いやりの心を育てる日々の実践の一つであり、アメリカを中心にライフスタイルとしてすっかり定着した感のある「マインドフルネス」瞑想。そのルーツを探るべく禅やカウンターカルチャーを深掘りしながら、日本で僕たちのライフスタイルにどうやって取り入れられるかを縦横に語り、実際に参加者と一緒にマインドフルネス体験もできる一晩です!
登壇者の3人は、昨年の夏にコロラド州ボルダーで4日間にわたって開催された「ラン・マインドフル・リトリート」に参加。米国屈指のトレイルランナー、ティモシー・オルソンのリードで一緒に山々を走り、自然の中に身をおいて瞑想し、地元オーガニック食材を使った健康的な食生活を楽しんできました。
なぜいま、ランや瞑想が食や生き方と同じライフスタイルとして注目されるのか? 松田は日本のスポーツ・ライフスタイル・シーンを牽引する雑誌『mark』の編集長として、最新07号で「カラダが作るココロ」という特集を組み、フィジカルとマインドの関係性に迫りました。荻野はグーグル発のマインドフルネス・プログラム「Search Inside Yourself」の認定講師(世界に100人しかいない)の一人として、ビジネス・リーダーシップを次のレベルに上げるべくマインドフルネスを伝える中で、フィジカルに注目しています。松島は編集者として自身が手がける『FREE』『ZERO to ONE』『〈インターネット〉の次に来るもの』といったデジタル系書籍と『BORN TO RUN』『GO WILD』などフィジカル系書籍の結節点としてマインドフルネスを取り上げ、昨年末には『たった一呼吸から幸せになるマインドフルネス JOY ON DEMAND』(チャディー・メン・タン著)を手掛けました。
日本でもこの1年でますます注目度が上がった「マインドフルネス」を縦軸に、フィジカル、ビジネス、デジタルなどさまざまな文脈からこの新しいカルチャーを掘り下げていく刺激的なトーク+体験セッションです。ぜひ奮ってご参加下さい。
2017/01/12 Thu @本屋B&B(下北沢)
松田正臣×荻野淳也×松島倫明
「BE HERE NOW! ランと瞑想で感じる“いま、ここ”」
『mark 07』/『JOY ON DEMAND』刊行記念
http://bookandbeer.com/event/20170112_bt/