『Beyond Jogging』を理解するには、まずジョギング誕生の物語まで遡らなければならないと考えた。その歴史を語るにふさわしいのは日本においてこの人以外は思いつかない。『POPEYE(ポパイ)』の編集者を経て、1986年の創刊から『Tarzan(ターザン)』に携わっている編集者の内坂庸夫さんだ。原稿をお願いすると期待を超える密度の物語が届いた。
われら日本人は走ることが好きだけど、アメリカ人も大好き。なんたって世界でいちばん歴史のある市民マラソンはあの〈ボストンマラソン〉、1897年(明治30年)から開催されている。都市マラソンの草分けといえるNYCマラソンの第1回大会は1976年だし。
その1976年に『ほんとうのランニング』が書かれている。《ここ10年で数多くのアメリカ人がジョギングをするようになった・・》から始まる50年前のハウツー本なのだけど、あなたはページを開く前に当時の時代背景を知っておいたほうがいいと思うな。こんなふうだ。
この年はバイセンテニアル、アメリカ建国200年。おめでたい年ではあるけれど、希望の星だった若き大統領J・F・ケネディの暗殺は10年以上経っても謎のままだったし、泥沼と化したベトナム戦争はいつ終わるとも知れず、国民は不満と不安を募らせていた。
多くの若者は徴兵に反対するだけでなく、反戦運動にも参加し、おのずと反体制、反政府運動へ流れ、いわゆるヒッピー文化を形成していた。「自由」「愛」「平和」を求め、ヒンズー教の教義、ヨガ、瞑想、禅などの東洋哲学に傾倒していった者もいる。ヒッピーなるものを説明するときに必ず紹介される伝説の〈ウッドストック/音楽祭〉は1969年に開催されている、本書発刊の7年前だ。
そしてその反体制文化(カウンターカルチャー)が主流になってしまうと、その反動として「まっとうな健全な生活」「フィットネス」「アウトドアスポーツ」が台頭してきた時期でもある。面白いなあ。
さてさて、いったいいつからアメリカは走り出したんだろう?
ときはぐっと遡って1957年。第二次大戦直後から続くソ連との冷戦まっただ中、いちばん最初に宇宙に飛び出した人類の創造物はソビエト連邦の人工衛星スプートニク1号。
人工衛星を作り上げることはもとより、ソ連にはそれを衛星軌道に乗せるだけの高性能大型ミサイルとその制御技術があること、つまり軍事的にとてつもない脅威を全世界に見せつけたのさ。宇宙開発と科学技術の最先端を自負していたアメリカは愕然とする。
翌1958年、おおあわてでNASA(アメリカ航空宇宙局)が設立され、初の有人宇宙飛行計画「マーキュリー」がスタートする。陸海空のエリート中のエリートが集められ、特訓が開始された。トップガンたちに課されたひとつが航空医官ケネス・クーパー博士の考案した〈エアロビクスポイント・トレーニング〉だ。
適度な負荷をもって全身運動を行えば、心肺機能と血液循環が向上し、すべての細胞組織は活性化し、体脂肪は減り、心臓病のリスクは減り、身体能力は向上する。博士はラン、バイク、スイムなどいくつもの全身運動種目と運動強度を用意し、点数計算できようにした。宇宙飛行士たち自身でプログラムできる身体トレーニングをガイドした。クーパー博士は1967年にこの『エアロビクス』を一般公開、書籍として発刊する。
そして、いちばんカンタンなエアロビクスは“走ること”だった。ここに“走ること”は“競走”ではなく、宇宙飛行士たちも含め国民の“カラダ作り”、“フィットネス”の方法になるのさ。だからアメリカ中が走り出す。
途中に割り込ませてもらおう。1963年、前年のキューバ危機をかろうじて切り抜け、第3次世界大戦を回避したケネディ大統領が陸海空全軍に対し檄を飛ばした。米軍人兵士としてさらに頑健なる身体と精神を実践せよ、と全米各地に〈50マイル/20時間内の行軍〉を提案(というより命令だろう)する。
弟ロバート・ケネディ司法長官自らがワシントンDC、極寒のポトマック川のコースを踏破し、全軍に見本を示したというのは有名な話。現在の「The 50 Mile Kennedy Walk」がそれだ。
喝を入れた同年1963年11月にJFKは帰らぬ人となるのだが、行軍はランニングに変わり、米国最古のウルトラマラソン「JFK 50 MILE」(コースにアパラチアントレイルを含む)はこうして始まる、誰もが知る米国のトレイルランナーたちも走る。
クーパー博士が『エアロビクス』を発表した1967年。同じ年に速く走る“ランニング”ではなく、ゆっくり走る“ジョギング”の方がカラダのためになる、と説いたのはオレゴン大学陸上部のコーチ、ビル・バウワーマンだ。心臓病の権威、W・E・ハリス博士と共著でその名もずばり『jogging』を書き、ミリオンセラーに輝く。NASAの『エアロビクス』と陸上部コーチの『jogging』、互いに火に油を注ぐことになって、さらにさらに全米が走り出す。
バウワーマン。どこかで聞いた名前だと思ったはず、オレゴン大陸上部の学生だったフィル・ナイト(つまり教え子)と組んで〈ナイキ〉を作った男だ。走る靴を作り売る人になったバウワーマンは考えた。
「ゼーハー必死に足を動かせば誰でも速く走れる。でも、ラクに速く走れたらどうだろう?」
そこで走法そのものを考えた(コーチだものお手のものだ)。ストライドの広い1歩なら、狭い1歩より距離を稼げる。同じ運動時間なら速く走れることになる。
「そうだ、かかとから着地すればいい、1歩の幅が広くなる」「そのアイディアと靴を一緒にしたら売れるじゃないか」。
バウワーマンはかかと着地のジョギング走法を思いついた。ナイキ不朽の名作「ワッフルトレーナー」初期モデルはかかとが切り落とされ、ワッフルソールがつま先からかかと(の上)まで貼りつけてある。ほら、ここで着地するんですよ、のびっくりデザインだ。
後にランニングの聖書『BORN TO RUN 走るために生まれた』(2009年刊)の中で著者C・マクドゥーガルにこてんぱんにやっつけられる“かかと着地と足への障害”はこんなことが由来だ。
と、こんなふうにアメリカ国民は1960年代後半から70年代にかけて宇宙飛行士とナイキを友だちに走り出している。
どうやら、この時期の全米をあげての“ジョギング”が『ほんとうのランニング』冒頭の《ここ10年で数多くのアメリカ人がジョギングをするようになった・・》を指しているように思える。
でさ、その『ほんとうのランニング』発行の翌年、1977年に『奇跡のランニング』が世界規模のベストセラーになる。こっちは走りのハウツーではなく、走ることをライフスタイルにしよう、というガイド本。世界中で売れに売れた。著者はジェームス・フィックス。おデブで喫煙者の35歳の筆者が“ゆっくり走る/ジョギングする”ことでいかに健康と快適生活を手に入れたか、をていねいに解説している。もちろん日本語版も出版された。翻訳は片岡義男さん(え?)と茂木正子さん。
日本では『ポパイ』が創刊されたばかり、ジョギングがかっこいいと唱った。シティボーイはマラソンとか健康なんかどうでもいい、ナイキを履きたいからジョギングをした。モテたいからジョギングした、そんな時代だ。
1977年にはもうひとつ重大なことが始まっている、〈ウェスタン・ステイツ100マイル・エンデュランス・ラン/WSER〉。その3年前にゴーディ・アインズレイという馬好きの大学生がカリフォルニアの“乗馬レース”に出場するんだよ。山岳トレイル100マイルをワンデイ(24時間)で走破するという通称〈テヴィスカップ〉を走るのだ。
乗馬レースにたったひとり馬なしで、自分の足で走ってだ。みんごと23時間42分でやっつけてしまう。ゴーディがとんでもない前例を作っちゃったから、翌年からわれもわれもとたくさんのランナーが応募してくる。ついには77年に乗馬レースとは別に人間の100マイルレースが開催しなきゃならなくなった。
『ほんとうのランニング』の翌年、カリフォルニアではトレイルランナーたちが100マイルを走り出している。