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今回の特集のもととなった書籍『ほんとうのランニング』は、1976年に米国で刊行されたもの。それを現代に蘇らせたのが、ランニングの瞑想的な側面を押し出しながらブランド運営をする〈DISTRICT VISION(ディストリクトヴィジョン)〉だ。なぜ彼らはこの本を復活したいと願ったのか、その背景を『ほんとうのランニング』日本版を刊行した木星社の藤代きよさんに紐解いてもらった。

最後のレースの先に

2020年2月上旬、ニュージーランドにいた。

北部の町ロトルアで開催された「Tarawera Marathon」(*1)を走るためだ。これが「コロナ以前」に走った最後のトレイルランニングレースになるとは思ってもみなかった。

旅の直前に感染症についてのニュースは聞いていた。2月7日のレース前日のブリーフィングでは地元のレースディレクターのティム・デイが「渡航ができなくなったランナーもいる」と語った。

それからあっという間だった。4月7日に東京、神奈川、埼玉、千葉、大阪、兵庫、福岡で緊急事態宣言が発出され、4月16日には全国に広がった。

それからずっと私たちの「コロナ時代」は続いている。

2020年2月末から3月のイタリアでのパンデミックのさなかに、作家、パオロ・ジョルダーノはこう書いている。

「家にいよう(レスティアーモ・イン・カーサ)。そうすることが必要な限り、ずっと、家にいよう。患者を助けよう。死者を悼(いた)み、弔(とむら)おう。でも、今のうちから、あとのことを想像しておこう。「まさかの事態」に、もう二度と、不意を突かれないために。」「すべてが終わった時、本当に僕たちは以前とまったく同じ世界を再現したいのだろうか。」
――― 『コロナ時代の僕ら』(早川書房) (*2)

「コロナ前の時代の最後のレース」からもうしばらく経つ。

悔しさと反省と恥ずかしさで一杯になりながら書くと、自分は「僕たち」の一員としてあの時も今も具体的で効力のある手立てを打つことができないでいる。自分のために、あの人のためにただただ注意深く過ごしている。そして、右往左往するばかりだ。

「すべてが終わった時」のために、あるいは終わるかどうかわからないこの時代に、「僕たち」はどんな風に進んでいくのだろう?
 

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2019 Tarawera Ultramarathonの風景。美しい森と湖のそばを走る。Photo Courtesy of mokusei publishers.

脅威に対するカウンター

「痛み(Pain)」という言葉に心をつかまれた。

ランニングギアとマインドフルネスのブランド「District Vision」をLAで運営しているトム・ダリーにインタビューしたとき、彼はこう語った。

「ロングディスタンスランニングは、痛みを抱えている仲間が立ち直っていくためのひとつの道を与えてくれる。42.195kmのコースにおさまらない距離を走ることは長く続く痛みの時間の共有なんだ。」

「それは、ある人にとっては簡単で別の人にとっては難しいというものではなく、みんなにとって難しいことだ。これを一緒に乗り越えていくということはある一つの(人が生きていくことの)表現になる。どう痛みと折り合いをつけていくのか。僕たちはそういうふうに新しいありかたやアプローチを探ってきたと思う。」(*3)

トムが15才だった頃からの友人で「District Vision」を共に始めたマックス・ヴァロットは、別のインタビューでこう語る。

「自分自身にとって良いと思うことをやるのがいいと思う。何に関しても、自分のペースで、感じるままに進むんだ。ランニングについては、こういうことだと思っている ――- 1分走って、次の1分は歩くんだ。そしてまた1分走る。」(*4)

District Vision
マックス・ヴァロット(左)、トム・ダリー(右)Photo: Courtesy of District Vision

トムとマックスは、時に苛烈なファッション、ショービズの世界で落ち込んだ。本人たちは多くを語らないが、病んだ。それでも幸いなことに2人はランニングやヨガを通して身体と心がだんだん回復していく経験をし、道を見定めることができた。

「自分たちと同じような痛みを抱えた仲間に出会うことが多かった」彼らは、一度は落ち込んだ自分たちだからこそ、そういう仲間の役に立てるんじゃないだろうかと考えた。そう考えて2015年に「District Vision」(*5, 6)を始めた。それからずっと「1分走っては1分歩き」ながらコミュニティの仲間たちと進んできたのだ。

ストレートに書くと、ドラッグやアルコール中毒やメンタルヘルスの問題といった「痛み」を持つ仲間と一緒走り、回復していくための解決策を心身両面から2人は探ってきた。それが彼らの日常であり、「ほんとうのランニング」だ。

人種、国籍、出自、宗教や信条、身体的精神的特徴によって何かを制限されず、感染症や疫病、政治、経済、災害、紛争、犯罪、中毒、薬物、環境問題などを含めた「僕たち」にとってのたくさんの脅威から一人ひとりが守られることをヒューマン・セキュリティ(*7)という。

トムが言うように、ランニングを通じて自分が身体的に強くなり守られていくだけではなく、誰かを励まし、励まされ、精神的社会的にも回復していくことが本当に可能だとしたら?走ることは、感染症が「すべてが終わって」もなおあり続けるだろうたくさんの脅威に対するダイレクトなカウンターになり得る営みであり、「僕たち」の新しいランニングカルチャーになるものなのではないだろうか。(*8)

そしてそこにはどんな人でも参加することができる。「District Vision」のアイウェアやシャツといったプロダクト、ソーシャルネットワーク上のクリエイティブイメージは極めて洗練されていて、スタイリッシュに見える。

しかしよく見てみると、ファッションフォトグラファー、チャドウィック・タイラーが撮影した数々の写真には、余裕のある人々だけではなく苦しくままならないランナーの姿や、ともにレースを走るグループ、応援する子供たち、車椅子のランナーや観客が記録されている。2021年末からは、仲間やアスリートの心身両面をサポートするコンテンツシリーズ「The District Vision Tape」をリリースし、トムとマックスらしい展開がさらに続いている。

このリアリティーが「District Vision」の本質だ。

District Vision

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NYCマラソンの風景。(1枚目)ランニングチーム「Black Roses NYC」のノックス・ロビンソンが手を広げてランナーをリードする。Photo Courtesy of District Vision

ランニングと社会

「District Vision」はヒューマンセキュリティに対する脅威(リスクファクター)への回復あるいは解決策となるようなランニングを探求してきた。

だとすると、マイク・スピーノ、あるいは彼の師のうちの1人であり現代ランニングに大きな影響を与えた”異端児”であり数々のオリンピックチャンピオンを輩出した名将パーシー・セラティ(1895-1975、豪、*9)は、「健康」を生成するための前向きな要素として(*10)数十年かけてランニングを実践してきたレジェンドだと言えるだろう。

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「District Vision」のアイウェアをつけたマイク・スピーノ。Photo Courtesy of District Vision.

「District Vision」と、ランニングチーム「Black Roses NYC」のノックス・ロビンソン、「Runner’s World」誌の編集者、マリッサ・ステフェンソン、そしてマイク・スピーノが、2018年にボストンマラソン(*11)でトークセッションを行った。マイク・スピーノは、「ほんとうのランニング(原題:Beyond Jogging : The Innerspaces of Running)」(*12)をひもとき、パーシー・セラティの言葉も引用しながらこのように語った。

「ランニングは一種のアートです。心の奥深いところからこなす営みなのです。セラティは素晴らしいアスリートたちに、大事なのは速く走ることではない、と語りました。大事なのは自分を全力で表現することなのだ、と。」

「1960年のオリンピックのエリオットの姿を見れば、それがよくわかるでしょう。あと300メートル走ればゴールだっていうのに、彼はそこで止まらず、そのまま走り続けました。止まったのは、ゴールを600メートル越えた地点でした。そうやって”自分自身”に触れること。彼はそれを表現していたんだと思います。頭の中でメトロノームを鳴らすんじゃなくて、自分自身の深いところから出てくる力に近づくのです。」

「自分のランニング」に出会うこと。70年代からただひたすら自由なランニングの喜び ―- 人間の自由な自己表現 ――- に魅了されて走り、研究と実践を続けてきたマイク・スピーノの言葉が、2018年のボストンでふたたび現代ランニングのコミュニティにつながった。

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ボストンのトークセッションで使用されたハンドアウト。中にはマイク・スピーノによるエッセイがプリントされている。Photo Courtesy of mokusei publishers.

マリッサ・ステフェンソンが続ける。

「ディーナ・カスター(*13)さんとのパネルセッションに参加してきました。「Let Your Mind Run」(2019年、米Crown社刊、国内未邦訳)という著書で、彼女は、時計をつけずに走ってみたら、時計をつけているとき以上に全力で、自分がそうしようと思うだけ走ることができたと綴っています。時計にはスプリットタイムだったり、ペースだったりが表示されます。本来ならそれより速く走れるのに、です。時計というテクノロジーから自分を切り離さなければ、彼女はそれに気づくことがないまま時計のペースに縛られ続けたかもしれません。」

「往々にして私たちはテクノロジーに縛られてしまう傾向にあると思います。たしかに後押しされる部分もありますし安定的に走ることができるようにもなります。でも、周りに指示をされなくとも、時計を使わずとも、マインド/体のつながりを通して自分の可能性を見出せると知ることも非常に大切だと思います。」

身体や心のコンディションの変化と人間関係や社会が連動し、つながっていくことを、医学者のジョージ・エンゲルは生物心理社会モデルとして定義している(*14)。この観点から考えると、マイク・スピーノやマリッサ・ステフェンソンの語るランニングには、人の身体と心、人間関係や社会との関係が前向きに変化していくドライバーとなるような力が宿っている。

(テクノロジーやツールを使いながら、あるいは時には使わなくとも)ランニングを通して自らの心身が良好な状態になる感覚をつかみとっていく。そしてそんな自分らしいランニングを体験することによって、フィジカル、メンタルの両面で良好な変化を感じるようになる。自分の身体や気持ちが変わると、さらに今度は誰かや社会との関係にもポジティブな変化が起きていくきっかけになるだろう。
 

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NYCマラソンの風景 Photo Courtesy of District Vision.

健康であることと病んでいることのあいだのグラデーションの中で私たちは生きている。ランニングは、そのグラデーションのもっとも暗い部分から回復していくための営みであり、誰もが一緒につくることのできる文化であると「District Vision」(*15)を通して知ることができる。また同時に、スピーノやセラティ、ディーナ・カーターが教えてくれるように、ランニングは、自分や仲間、社会を前に動かし、日々に明るい彩りを与えていくようなプロアクティブな「表現」でもある。

だから私たちは走ることをやめないし、むしろ誰もが自分なりにいますぐに「1分」はじめることができる営みとしてそれはこれからも連綿と続いていく。

だから、#走ろう。そうすることが必要な限り、ずっと、#走ろう。「まさかの事態」に、もう二度と、不意を突かれないために。


<注釈>

*1 : Tarawera Ultra Marathon by UTMB : ニュージーランドの北部、ロトルアで開催されるトレイルランニングレースシリーズ。100マイル、102キロ、50キロ、21キロの部からなり、2022年から「UTMBメジャーズ」シリーズの1戦となった。2020年の100マイルの部では、2019年のBadwaterで優勝した石川佳彦が準優勝、Answer4/ Run boys! Run girls! アスリートの村田諒が男子4位、大石由美子が女子6位となった。https://www.taraweraultra.co.nz/

*2 : 『コロナ時代の僕ら』パオロ・ジョルダーノ著、飯田亮介訳(2020年、早川書房刊)

*3 : 2021年、独占インタビュー抄訳、木星社。

*4 : ニューヨークを拠点にアウトドアカルチャーについての発信を行なっている「Fieldmag」誌とマックス・ヴァロットとのQ&A(2021)より。

*5 : 同年に発表された国際連合の「持続的開発目標(SDGs)」の3番目には「すべての人に健康と福祉を」という項目が定められている。District Visionが創立されたのも2015年であるが、実際にトムとマックスがリサーチを開始し最初のギアを作り始めたのはより早い段階の2013年とされる(districtvision.com より)。

*6 : 「District Vision」という名前の由来は、トムとマックスがメキシコを旅したときに出会った言葉「Distriro(英語のDistrict)」からきていると言う。すべてがありのまま(Everithing is raw)であり、これまで(のビジネスやライフスタイル)とはまったく違う場所(District)の新しい価値観(Vision)を表現している。(2018.6.18 Gearpatrol誌インタビューより。)なお、東京を中心にランナー/DJ/モデルとして活躍するLono Brazil IIIは、自身のNY在住時に「District Vision」のモデルとしても活動した。「District Vision」のプロダクトは、日本国内ではUnited Arrows が一部店舗およびECで少量取り扱っている。

*7 : 「人間の安全保障委員会は、平成12年9月の国連ミレニアム・サミットにおける日本の呼びかけに応え、緒方貞子前国連難民高等弁務官とアマルティア・セン・ケンブリッジ大学トリニティーカレッジ学長を共同議長とし、共同議長を含め12名の世界的な有識者をメンバーとして設立された。」外務省HPより:https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/bunya/security/ah_iinkai.html

*8 : 「District Vision」と直接の関係はないが、ランニングを通して何かを克服しようとしてきたランナーの例としては、2015年のUltra Trail Mount Fujiで優勝したリトアニアのジェディミナス・グリニウスがいる。ジェディミナスはイラク紛争によるPTSDへの対応のためランニングを始め、現在もトップクラスのウルトラトレイルランナー、コーチとして活躍している。https://www.trailrunningfactory.com/online-coaching/

*9 : パーシー・セラティは、オーストラリアのランニング・コーチ。1960年ローマ五輪金メダリストのハーブ・エリオットなど、世界チャンピオンや世界記録保持者を多数育てた。アーサー・リディアードと並ぶランニング指導者であり、自然主義ランニングの名将と言われている。著書「チャンピオンへの道」は1960年代に国内でもベースボールマガジン社から刊行され筑波大学や群馬大学で教鞭を取った山西哲郎氏の愛読書となった。国内で長らく入手困難だった名著「チャンピオンへの道」は、木星社からついに待望の復刊が予定されている。「ほんとうのランニング」(木星社)を初邦訳し、かつランナー必読の書となった「Born to Run 走るために生まれた」(NHK出版)を世に出した翻訳家、近藤隆文氏による新訳が進行中。(なお、「Born to Run」にもパーシー・セラティは少し登場する。「チャンピオンへの道」と「Born to Run」を合わせて読むのも楽しい。)詳しくは、www.instagram.com/mokusei222 で。

*10 : 健康社会学者アーロン・アントノフスキー(1923-1994、米)は「健康生成論」という体系を構築した。病気の原因となるもの(リスクファクター)を取り除くという考えとは逆に、良好な状態になるための要因(サリュタリーファクター)を解明し、それを強化していくという立場を取る。サリュタリーファクターとは、適度な運動による心地よさやそれによる良好な人間関係の構築といったこと。

*11 : 2018年10月16日に開催された第122回ボストン・マラソンでは、男子は川内優輝、女子はデシリー・リンデンが優勝した。日本人選手の優勝は1987年の瀬古利彦以来となった。レース当日のボストンは強風と寒さでタフなコンディションとなったが多くのランナーがレースを楽しんだ。

*12 : 「ほんとうのランニング(原題:Beyond Jogging : The Innerspaces of Running)」マイク・スピーノ著、近藤隆文訳 2021年12月木星社刊 https://www.amazon.co.jp/dp/4910567410  

*13 : 2004年アテネオリンピック女子マラソンの銅メダリスト。2005年シカゴマラソン、2006年ロンドンマラソンで優勝を飾ったトップランナー。14人のオリンピアン、64の米国優勝、29の米国記録を生み出した北カリフォルニアのランニングチーム「Mammoth Track Club」を率いている。https://www.mammothtrackclub.com/about なお、2004年のアテネオリンピック女子マラソンの金メダルは日本の野口みずきが獲得している。

*14 : 身体のコンディションや変化は人の気持ちにも左右する。心理面の変化は、恋人や家族、友人といった誰かとの関係や仕事にも影響を及ぼす。自分の身体と精神、社会はそうやってつながっている(生物心理社会モデル)と医師のジョージ・エンゲル(1913年-1999年、米)は定義した。https://www.ncnp.go.jp/cbt/knowell/society/circumstances01.html

*15 : 本稿を書いている2022年1月には、「District Vision」のマックスとともに、マインドフル・ランニングのプログラム「The DV Tape」をリリースしたという報も入った。マイク・スピーノは、時代を超え、コミュニティや文化を超えて実践的に進み続けている。https://www.districtvision.com/shop/mindfulness-courses

District Vision

「ほんとうのランニング」
マイク・スピーノ著、近藤隆文訳(2021年12月木星社刊)
ISBN 978-4-910567-41-9
Photo Courtesy of mokusei publishers.