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人類が1km3分ペースを切って42.195kmを走り切ったのは、1998年のベルリンマラソンで2時間6分5秒の世界最高記録を打ち立てたロナウド・ダ・コスタ(ブラジル)が初めてでした。それ以前の男子マラソンの世界最高記録は1988年にベライン・デンシモ(エチオピア)がマークした2時間6分50秒で、デンシモの記録が破られるには約10年もの月日を要しました。

ところが、ダ・コスタの記録は、わずか1年で、ハーリド・ハヌーシ(モロッコ、その後アメリカに帰化)によって破られてしまいます。

そして、そこから一気に高速化が進みます。現在の世界記録は、エリウド・キプチョゲ(ケニア)の2時間1分39秒。キプチョゲは2019年10月にウィーンで行われた「イネオス1:59チャレンジで」で、非公認ながら人類史上初めて2時間を切る1時間59分40秒というタイムをマークしています。つまりは、1998年のダ・コスタの記録から約20年の間にマラソンの記録は一気に7分超も短縮されたことになります。

前置きが長くなりましたが、ここまで高速化が進んだのは、マラソンシューズの開発競争とは無関係ではありません。

このマラソンシューズの開発競争は、18世紀後半に起こった産業革命になぞらえることができるでしょう。

かつて、エチオピアのアベベ・ビキラが裸足で42㎞を走り切り、世界に衝撃を与えたのが1960年のローマ五輪のこと。その当時のマラソンシューズはというと、欧米諸国では耐久性のあるものが好まれ、ソールが厚め。一方で、日本国内では、ハリマヤのマラソン足袋に端を発し、改良を重ねながらも薄くて軽量かつ通気性のあるシューズが追求されていました。

ミッドソールの登場は蒸気機関の発明に匹敵?

マラソンシューズに革命が起こったのは1970年代のことです。それはEVA(Ethylen-Vinyl Acetate:エチレン酢酸ビニル共重合樹脂)の登場です。

シューズのアッパーとアウトソールの間にミッドソールというパーツが搭載されるようになったのはこの頃。当初はミッドソールにはラバースポンジ(ゴムを発泡させたもの)が用いられるのが一般的でしたが、EVAが用いられるようになりました。軽量にもかかわらず、衝撃吸収性に優れているという側面があり、各メーカーがマラソンシューズにEVAを採用するようになりました。

18世紀半ばにワットが蒸気機関を実用化したことにより、第一次産業革命が起こったのと同じように、EVAの登場がマラソンシューズに大きな変革をもたらしました。

その他にもアッパーにメッシュ素材が用いられるようになるなど、改良を重ねながら、軽量かつ機能性に富んだシューズが作られていきました。

ちなみに、ダ・コスタ以降、2007年のハイレ・ゲブレセラシェ(エチオピア)まで男子マラソンの世界記録を樹立した選手が履いていたシューズのメーカーを見ると、

ダ・コスタ…ナイキ
ハヌーシ…ニューバランス
ポール・テルガト(ケニア)…ナイキ
ゲブレセラシェ…アディダス

一方、2000年以降の女子の世界記録は、

高橋尚子(日本)…アシックス
キャサリン・ヌデレバ(ケニア)…ナイキ
ポーラ・ラドクリフ(イギリス)…ナイキ

となっています。

ナイキがやや優勢といったところですが、グローバル企業の各メーカーがしのぎを削っていたのが分かります。

鎖国下の江戸時代のように日本は軽量化という独自路線を邁進

第一次産業革命が起こった当時、江戸時代だった日本は鎖国政策をとり独自の文化が形成されていたように、マラソンシューズにおいても日本国内では独自のムーブメントが起こっていました。

EVAの登場以降も、どちらかといえば、海外のトップ選手はクッション性も大事にしていた印象がありましたが、日本国内では耐久性のあるシューズよりも、軽量シューズが好まれる傾向にありました。ついには、片足100g程度の超軽量シューズも登場したほどです。特に、1981年に登場したアシックスのソーティシリーズは人気を博し、多くのランナーの力となっていました。

また、部活アスリートにはミズノの人気も高く、2000年代前半までは、箱根駅伝などの学生駅伝で高いシェア率を誇っていました。

オーダーメイドシューズが支持を集めていたのも、日本ならではでしょう。女子マラソンのオリンピックメダリストである有森裕子、高橋尚子、野口みずきらが履いていたのは、当時アシックスの社員だった“現代の名工”三村仁司が手掛けたオーダーメイドのシューズでした。メダリストのみならず多くの実業団選手、大学や高校の強豪校の選手もアシックスやミズノのオーダーメイドシューズを履いていました。

このように2000年代半ばまでは、各社の勢力は拮抗していました。

黒船adidas来航、国内のシューズシェアに変化が

ところが、その均衡が破られる時代が訪れます。それは2007年9月のこと。ハイレがアディダスのクッショニングシューズadizero CSで2時間4分26秒の世界記録を樹立したのです。ここからアディダスの時代が訪れます。

翌2008年のベルリンマラソンでは、adizero Adiosのプロトタイプを履いたハイレが再び世界新記録を塗り替え、2時間3分59秒と初めて2時間4分の壁を破ります。その3年後の2011年にパトリック・マカウ(ケニア)がadizero Adiosの改良モデルで2時間3分38秒、2013年にウィルソン・キプサング(ケニア)がadizero Adiosで2時間3分13秒、2014年にデニス・キメット(ケニア)がAdizero Japan Boostで2時間2分57秒と、アディダスのシューズを履いたアスリートによって男子マラソンの世界記録が次々と更新されていきました。新しい足型(ラスト)の「microFIT(マイクロフィット)」ラスト、新しいミッドソール素材のBOOSTフォームといった新しいテクノロジーを搭載し、アディダスが世界のマラソンシーンを席巻しました。

日本国内でもアディダス旋風は吹き荒れます。2012年からアディダスがユニフォームをスポンサードしている青山学院大が、同年の出雲駅伝でいきなり初優勝を果たします。そして2015年の箱根駅伝では、史上初めて10時間50分を切る驚異的なタイムで初の総合優勝を成し遂げました。当時アディダスと契約していたシューズ職人の三村氏が青学大のメンバーのシューズを製作するなどのバックアップもあり、多くの選手がアディダスのシューズを履いていました。ここから青山学院大の黄金時代も始まりました。

厚底シューズはムーンショットを可能に

 
20世紀は航空宇宙工学の発達が目覚ましく、人類のフィールドはついに地球を飛び出しました。1969年7月20日には、アメリカの有人宇宙飛行船「アポロ11号」が月面着陸に成功しています。
人類が月面に一歩を踏み出したのと同じように、マラソンシューズの世界でも、それまでの常識が覆されました。そして、ここからマラソンの記録は、世界記録はもとより、多くの一般ランナーの自己記録までも、加速度的に短縮されていくことになります。
「これはひとりの人間にとっては小さな1足にすぎないが、全ランナーにとっては偉大な飛躍である」と、かの世界的名ランナーが言ったとか言わないとか……。

マラソンシューズ界で人類初の月面着陸に匹敵する飛躍が起こったのは2017年のことです。

この頃、マラソン2時間切りの夢が語られるようになっており、一時代を築いたアディダスもまた「サブ2」の名のシューズを発売しています。それは薄型の超軽量のシューズでした。

アディダスとは全く異なる発想から高速シューズの開発を行っていたのがナイキでした。2017年5月に行われたBreaking2というチャレンジに合わせて、お披露目となったのが、分厚いソールが特徴的なシューズです。このシューズこそがナイキ ズームX ヴェイパーフライ 4%でした。Breaking2ではキプチョゲが、カーボンプレートが搭載されたこのシューズを履いて、非公認ながら2時間0分25秒をマークしています。

2015年のポートランドハーフマラソンでゲーレンラップ(アメリカ)が、2016年のリオ五輪でも上位選手がプロトタイプを履いており、水面下ではひそかに話題に上がっていましたが、カーボンプレートを搭載した厚底レーシングシューズがいよいよ一般発売となり、世界のマラソンシーンを席巻しました。まさにマラソンシューズの転換期といっていいでしょう。

あまりもの席巻ぶりに、様々な議論をも巻き起こします。ついには、2020年に世界陸連(WA)が厚底シューズの利用ルールを規定。ソールの厚さなどを細かく定めたほか、トラックでの使用を禁止する事態にまで発展しました。

日本国内でもナイキの厚底シューズに乗り換えるランナーが続出。2018年の箱根駅伝ではナイキのシェア率がトップになりました。とはいえ、当時はまだ28%程度と他メーカーを少し上回ったに過ぎなかったのですが、翌年に50%近くまで急上昇。さらに、2020年は約84%、2021年には約96%と圧倒的なシェア率を誇りました。

他メーカーも厚底シューズの開発に乗り出しますが、ナイキは、ヴェイパーフライ 4%に続いて、ナイキ ズームX ヴェイパーフライ ネクスト%、さらにナイキ エア ズーム アルファフライ ネクスト%と、次々に新作を世に送り出します。キプチョゲが人類史上初のマラソン2時間切りを成し遂げた時、足元にあったのはアルファフライでした。その後もそれぞれのシューズがアップデートされ、ナイキの一強状態がしばらく続いています。

2020年代に入って、アディダス、ニューバランス、アシックス、ミズノと、各メーカーからそれぞれ特徴を持った厚底レーシングシューズが登場しています。また、ホカ、オンなどの新興ブランドのシューズに足を入れる選手も出てきました。依然として、ナイキのシェア率が高い状態は続いていますが、各メーカーがシューズ開発に力を入れており、再び勢力が分散される日が来るかもしれません。