走り慣れたトレイル、見慣れた景色、家の裏山。旅やレースで出会う特別な場所ではなく、日常に溶け込むような“お決まり”の場所。急峻な登りもゆるやかな樹林帯もトレイルランナーにとっては極上コース。そんな魅力的な里山を知るべく、あの人のお気に入りのトレイルを覗いてみよう。第二回は、京都市消防局で消防隊長を務めるパタゴニア・サポート・アスリートの西村広和さんのホーム・マウンテン金勝アルプスを訪ねた。
「走り始めた頃から、ここに来ているんです」
住まいは滋賀県、“湖南”と呼ばれる琵琶湖の南側。滋賀といえば実はアウトドア天国で、琵琶湖を囲むようにぐるりと一周山が連なる。比良比叡山系や高島トレイル、鈴鹿山系など名だたる山々があるが、湖南の地元の人たちに愛されている里山が「金勝アルプス」(別称:湖南アルプス)だ。金勝と書いて、“こんぜ”と読む。草津駅からバスで30分、距離にして7kmと少し。大津市、栗東市という開かれた街の中に突如として現れる山塊だ。コンパクトな山域ながら縦横無尽にルートがある。初心者から西村さんのようなベテランでも緩急自在に駆け回ることができる懐の深い山なのだ。
コースの概要
金勝ラウンド 約10km 累積標高635m
スタート/フィニッシュ:上桐生バス停
寄り道スポット:落ヶ滝、天狗岩
はじめにおすすめを聞いたとき、あれ、たった10kmですか?と思わず聞き返したコースは、地図からは全く想像もつかない場所だった。日中や土日は登山者が多いため、早朝に来ることが多いという。朝日に照らされる林道から森へ一歩足を踏み入れると、小さな沢からひんやりとした空気が伝わり、霜を装ったシダの葉が迎えてくれる。
「ここは水が豊富な山なんですよね。今日のコースも何度か渡渉があるんです」
ものの数分で奥深くのジャングルに迷い込んだかのような緑の濃いシングルトラックとなり、透き通った沢が何度も交差する。うっかりすると足元を濡らしてしまいそうだが、西村さんはピョンピョンと軽快に飛び越えていく。
1000年以上も前のこと、都の造営のために一部の森林伐採や過度な採掘が行われたことで森林が衰退して禿山となり、下流のエリアでは水害により住民を苦しめた歴史があるそうだ。その後、明治時代以降に地元の方々により植栽などが行われ、今の緑豊かな森林が蘇ったという。独特な植生はそんな過去が影響している。
「この先にいい場所があるんですけど、行ってみますか?」
西村さんの誘いで登りのルートを外れて分岐を曲がる。普段の練習では通らないが一見の価値あるスポットらしい。トレイルに覆い被さるシダを漕ぎながら、マッドな細道を数100メートル上がると、水が滴る巨石が現れた。落ヶ滝と呼ばれる落差20m。冬は水量が減っているけれど、見上げるほどの大きな滝は雨のあとならきっと迫力満点だろう。
コースへ戻り、北谷線を登って尾根に向かう。起点となる登山口からは北谷線のほか、天狗岩線、落ヶ滝線と複数のルートから尾根に詰めることができるが、沢沿いは鎖場があったり、登山者が多いルートもあり、トレイルランナーには北谷線がちょうどいい塩梅らしい。たしかに、“走ろうと思えば走れる”斜度だ。最初に向かったピークは鶏冠山。北谷線から北峰縦走線の尾根に出ればあと少し。時々現れる小ピークの木々の合間から遠くの山塊を眺める。
「あの向こうの山、走れそうですね」
「ここから繋いだら何キロくらいでしょうね」
「かなり距離を稼げますね」
走り始めた頃は、決まった場所の決まったコースを繰り返すだけだった。それが最近になって決まったコース以外も探索するようになって山の楽しみがうんと広がったという。
「それだけの走力も知識もついてきたからでしょうね。こっちに行ったらどこに繋がるかなと考えるのは楽しいですね」
レースだけでない、地元の里山を繋ぐロマンある旅の計画を語る。自宅から比叡山の裏手にあるトレイルを超えて約30kmほど走るが、どうしてもロード率が高くなってしまう。忙しい日々のなかでも、自宅から走って来れる手軽な山がここだという。
トレイルランニングに興味を持ち始めた頃、自宅の近くにどこかいい山はないかなと調べて偶然見つけたのが金勝アルプスだった。2008年頃のことだ。ふらりと走りに来てみると眺望が良く表情豊かな自然にすっかり魅了され、「“トレイルランニングってなんかいいな!”と思わせてくれたのがこの場所」と話す。始めに見つけた山がこんなにも魅力的だったから、あまり他の山に行くこともなく何度も通い詰めてきた。
「飽きないですよね。それにこの山はトレイルランニングの技術を磨くことのできる場所だと思います。様々な種類のテクニカルな路面があり、細かいアップダウンもある。でも長い登りはないので初心者にもおすすめです」
この山が持つ独特な魅力が彼をトレイルの世界に導いたとも言える。いまや、日本を代表するビッグレースUTMFで優勝する彼のルーツ。
「レース前には必ずと言っていいほど、このコースを走ります。1週間前に走りに来て、ちょっとイマイチだなと思ったらもう1回刺激を入れて調整することもあります。いつも走っているコースだから、調子が測りやすいんですよね」
木々に囲まれてこじんまりとした鶏冠山の山頂を経て、しばらく尾根を辿る。登りはじめの水源豊かな森とは打って変わって、小石と砂混じりの乾いたトレイルが続く。
思いのほかアップダウンがあり、岩場の急坂もある。次第に路面は花崗岩となりザレに足を取られそうになる。まさかここも走るのだろうか。
「そうですね、全部走りますよ」
皆が親しむハイキングコースも、全部走ろうとすればなかなかの負荷になる。パッと開けた稜線は北峰縦走路の絶景スポットのひとつ。赤松の低木に囲まれ、岩を縫うように駈け、跳び越え、山と戯れる。なんだこれ!そう来るか!気持ちよく走りたい気持ちとつい足を止めたくなる気持ちが行ったり来たり。初めてならきっと驚きの連続に違いない。独特の地形が好奇心を掻き立てる。
5kmほど進んだところで、金勝アルプス最大のスポットが現れる。ここに立ち寄らない選択肢はないだろう。入り口にはロープが垂れていて、まさかの岩登り。もちろん、消防士の西村さんはお手のもの。岩をすり抜け、鉄梯を渡り、よじ登る。
大きな花崗岩の巨塊が積み重なった奇岩群。その真ん中に聳えるのが金勝アルプスを象徴する天狗岩だ。周りの平な岩の上に立てば、低山とは思えない雄大な景色を望むことができる。
琵琶湖の水面は輝き、遠くに雪化粧をした山々が見える。眼下には湖南の町並みが広がり、ここがいかに地元民の生活圏から近いかわかる。滋賀県内の数ある山脈の多くが冬は雪を纏う。一年を通してだれでもハイキングやトレイルランニングができる山域は、西村さんにとっても、多くの地元の人にとっても貴重な存在だ。
標高を下げると根が這う樹林帯となり、歴史ある石仏や遺跡が姿を表す。下りも決して飽きせないところが、この山の凄さかもしれない。
地元の山がより良い場所になるように、自分にできることを模索する
天狗岩は地元の人にとっても憩いの場であり、金勝アルプスに来るなら必ずと言っていいほど立ち寄るスポットだ。そんな天狗岩のすぐそばのトレイル上に気がかりな場所があるという。
「ここは階段が作ってあるんですが、雨風に晒されるうちに侵食されてしまうようで、一部が崩れたままになっています。何段かはすでに抜けてしまって脇へよけてあるのですが、他の場所もこのままでは危ないと思うんです」
トレイル脇にはトラロープが張ってあるが、それを結んである木も立ち枯れに近い状態で心許ない。登り方向ならまだしも、下りは足を滑らせたり踏み外したりすると怪我をしそうな場所だ。
「登山者の方が多い場所なので、整備したほうが良いと思うのですが、どういう風に整えるのが正解なのかわからないですよね。手を入れることがいいのか悪いのか。直さず自然のままがいいのか、でもそれでは危ないから……」
一部は人工物で作った階段、その上は岩そのものを削ったステップになっている。歩けないほどの崩落でもなく、けれど何とかしたいという気持ちはある。登山道整備に関わったことがなく、自然との共存の形に複雑な気持ちを抱えているという。
そこで西村さんが相談したのは、自身が大会アンバサダーを務める「近江湖南アルプスTRAILRUN RACE in桐生」の実行委員会だ。まさにこの地元の山が舞台となっている。山麓にあるオランダ堰堤の水辺環境保全に取り組む「オランダ堰堤および周辺環境を守る会」という団体が中心となり運営されているレースなのだ。
風化、侵食しやすい花崗岩ゆえに、気になる場所は天狗岩近くの階段の崩壊だけではない。昔打ち込まれた杭の残骸、浮いて傾いた石段。一方で麓に近くなれば水が染み出した沼地のような場所もあり、いつの時代かの整備の跡がほんの少し残っていた。
地元団体だけで整備に取り掛かることができるわけではなく、観光協会や森林管理所など関係各所にお伺いを立てなければならない。申請をして自分たちが手を動かせるのか、あるいは整備してくださる方にお願いするのかはまだわからないけれど、その一歩を踏み出した。
「整備に必要な重いものを運ぶだけでも力になれるかもしれない。体力がある僕達が、手ぶらで登るくらいなら少しでもできることがあればやりたいですね」
整備の経験や知識がある方々と共に、どうにか良い解決策を見出し、トレイルワークに取り組んでいきたいという。一度は人間エゴによって失われた自然を、再び地元民によって育て守られ親しまれてきた山。自分にできることは何なのか。
「自分だけでなく、仲間も一緒にみんなでやっていきたいですね。そうすれば一度二度で終わりでなく、地元の山と長く関わっていけるんじゃないかなと思っています」