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瀬戸内文化誌 宮本常一著 田村善次郎編

宮本常一は、山口県周防大島の出身だ。日本各地を訪れ調査し、多くの記録を残した民俗学者として知られる彼だが、瀬戸内海の研究は生涯のテーマであったそうだ。この本は、彼がまとめた原稿用紙2500枚超えの超大作の論文を元に、田村善次郎氏が編集したものだ。

そもそも瀬戸内とはどこを指すのかという定義づけに始まり、歴史は瀬戸内海がまだ海でなかったころ、日本が朝鮮半島と陸続きだった時代まで遡る。島の生活に潤いをもたらした製塩や、造船などの産業。そして漁業や農業の変遷は、時代を追って丁寧に解説されていく。瀬戸内という広い範囲に、無数に浮かぶ島(大小あわせて3,000を超える)のそれぞれの特徴も同時に浮かび上がってくる構造になっている。また内海らしい船の文化や、海賊の話なども興味深い。人々の暮らしに寄り添う衣食住に関する記述は、彼が幼少期に過ごした周防大島を含む瀬戸内海の記憶が、時折テキストの中に折り混じる。色や音、香りまで鮮明に想起させる情景が、生々しくて美しい。

ちょうど麦の色づく頃、この島のほとりを行き過ぎたことがある。潮の香りが海面にただよい、南風がほんの僅かにあって、健康な太陽の光が海の色をはつらつとした紺海にしていた。その海の上で私はあのなつかしい蜜柑の花の香りをかいだのである。これもまた健康な、そしてあたらしい瀬戸内海の匂いである(「月間中国」一巻三号、中国新聞社、昭和二十一年七月)

島という特性上、根拠となる文献や史実を拾い集める作業は困難を極めたという。散り散りのパズルのピースを大切に、ひとつずつ拾っていくように、本書も進んでいく。読み終わると、瀬戸内という地域の全体像が浮かび上がってくる。“いつも晴れていて、海が綺麗な瀬戸内海”というざっくりとしたイメージが、解像度高く、そして立体的になったようだ。宮本は、瀬戸内の良い面、美しい姿だけを取りあげるのではなく、影の部分もありありと描き出している。

しかしその美しい風景の中にもいろいろの歴史があり、人生がありました。それは時に苦しみに満ちたものであったり、時には喜びに満ちたものであったこともあります。そしてまた世の中が進歩したように見えても、この海のほとりに住んでいる人たちの生活がむかしよりとくなったとも、かんたんには言えないのです。

あとがきによると、「瀬戸内海の研究も、なんとかまだ余命のある間にまとめあげてみたいと思うのです。それがどんな意味を持つのかということになりますと、大きな問題を抱えた瀬戸内海の将来に多少とも方向づけを見出すことができるようにしたいと思います」と生前に語っていたそうだ。この研究は、島の現在と未来のために書かれたものでもある。宮本の切なる願いが込められた、瀬戸内を知る一冊である。