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村上春樹さんの著書『走ることについて語るときに僕の語ること』は、市民ランナーの心のひだを震わせる、右に出るもののない名著です。どれだけのランナーが、この本を読んで「その通り!」と膝を打ち、これは自分のことを書いているのではないかと感じたことでしょう。そのランナーのバイブルにオマージュを捧げる特集タイトルは恐れ多いものですが、少し視点をずらしていることでお許し願いたいと思います。英訳版でいえば、たったひとつの言葉“Running”が“Runners”になっただけ、“走ること”が“走る人”に変わっただけなのですが意味は大きく異なります。

“走る人”について語る、つまり今回は観戦の特集なんです。markは基本的には行動を促すメディアを標榜しており、皆さんに走ることを推奨してきたのですが、この特集に限ってはランナーを観て、心を熱くすることを目的にしています。リニューアル後のmarkから読み始めた方も、自分は走るのは苦手なんだよという方にも興味を持っていただけるように編集したつもりです。

なぜ、わたしたちは誰かが走る姿に魅了されるのでしょう。鍛え抜かれたランナーが真剣に走る姿は、それだけで無駄のない美しさを湛えています。走ることに苦しさが付きものであることをわたしたちは経験的に知っているから、ランナーが自分の限界と対峙している時には自分まで苦しくなります。それはわたしたちの脳が共感を得るように進化してきたからです。ミラー・ニューロンと呼ばれるその部位は、ランナーの苦しみとそこから解放されるゴールの瞬間、その歓喜に激しく反応します。わたしたちは物語る動物ですから、ゴールに至るまでにランナーが取り組んできた日々の練習、費やしてきた時間に想いを馳せることができます。そうした全てが“走る人”を観ることで強く喚起され、その共感がわたしたち観戦者の糧となるのです。

1952年ヘルシンキ五輪で驚異の長距離3冠(5000m、10000m、マラソンで金メダル)を成し遂げたエミール・ザトペックというチェコスロバキア(当時)の選手がいました。限界まで追い込み、苦しそうに走るその姿から「人間機関車」と呼ばれたランナーです。彼はその記録だけでなく、温かな人柄でも記憶されている人物です。それは、もうひとつのランナーのバイブル『BORN TO RUN 走るために生まれた』で紹介されている、こんなエピソードから伺い知ることができます。

ザトペックの少し後に活躍したオーストラリアの選手ロン・クラークは、何度も世界記録を塗り替えた実力者でありながら1968年のメキシコ五輪では10000mの決勝で高山病に倒れてしまいます。大事な一戦で結果を残すことができなかったのです。その帰り、チェコスロバキアに招待されたクラークはザトペックから荷物を預かります。彼は当時、チェコスロバキアの民主化運動“プラハの春”がソ連に弾圧され、不遇をかこっていたザトペックから西側へのメッセージを受け取ったのだと思いました。しかし、包みを開けてみるとそこに入っていたのはザトペックが1952年の五輪で獲得した金メダルだったのです。ザトペックは自分が全てを失いつつあった時に、大事なメダルをクラークの功績を讃えるために差し出したのでした。クラークはザトペックからは「情熱、友情、人生への愛がその一挙手一投足から輝きだしていた」と後に語ったそうです。

ひたむきなランナーたちの殿堂にエイブラハム・リンカーン(「徒競走では無敵だった」)や、ネルソン・マンデラ(大学ではクロスカントリーの名選手で、収監中も房内で七マイル走るのを日課としていた)が含まれるのはただの偶然なのか?  ひょっとして、ロン・クラークはザトペックを詩的に表現したわけではないのかもしれない――彼の鋭い目はきわめて冷静で正確だったのではないか。人生への愛がその一挙手一投足から輝きだしていた。

—『BORN TO RUN 走るために生まれた ―ウルトラランナーVS人類最強の“走る民族”』クリストファー・ マクドゥーガル著

著者のマクドゥーガルは、こんなエピソードから、走ることと愛することに相関関係があるのではないかと真面目に推察します。

愛がなかったら、われわれは生きていない。走らなければ生存できなかった。一方が向上すれば、もう一方も上達するのは意外なことではないのかもしれない。

納得できない理屈ではありません。例え愛することというのが大袈裟だとしても、走ることには“compassion”=“共感”を呼ぶ要素があるのではないでしょうか。ランニングは究極の個人競技であるようでいて、走る苦しさと喜びを共有する連帯のためのツールであるのかも知れません。

これから始まるランニングのシーズンに備え、観戦力を高めましょう。できるだけランナーのストーリーに触れて共感力を高めておきましょう。そして共にランナーの姿に心震わせましょう!

mark 2020 SEP
What We Talk About When We Talk About Runners.
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