ジャンプとクロスカントリーの複合で競うスキー「ノルディック・複合」は瞬発力と持久力という相反する能力が求められ、総合力が問われることから“KING OF SKI”とも称される。その競技でオリンピックに5大会連続で出場し、2017-2018シーズンにはW杯で総合優勝も成し遂げたのが渡部暁斗選手だ。
その渡部暁斗選手が2022年、CO2排出量を実質ゼロ(カーボンニュートラル)で競技活動を行うための“エコパートナー”を募集した。それに手をあげたのが“ビジネスの力で、気候変動を逆転させる”ことを目標に掲げる〈Allbirds(オールバーズ)〉だった。
雪が減っている
そもそも渡部選手がCO2排出量の実質ゼロ(カーボンニュートラル)を目指そうと考えた背景には、彼がウインタースポーツの競技者であるということと関わりがある。ウインタースポーツを成り立たせることに不可欠なもの、そう“雪”が減っていることを実感しているからだ。
「競技外でも趣味でバックカントリースキーをやるので、春には全国各地の山に登るんですけど、特に栂池高原というのは一番よく行く山です。この山でスキーをする中間地点に白樺の木が一本あって、ここが休憩ポイントとして目安になる場所なんです。
2017年3月24日の写真を見ると、その時はスキーで上がってきてそのままこの枝に腰掛けられるくらいの積雪量がありました。ただ今年(2023年)の春、4月6日に上がった時には同じ白樺の木に手を伸ばしても届かないくらいの積雪量しかなかった。もちろんそのシーズンによって上下動を繰り返しながら多いシーズンもあるし少ないシーズンもあるんですが、どんどん雪の少ないシーズンの印象が強くなってきているというところです。枝に届かないというのは初めてだったので、特にこの春はそれを感じました。自分が活動を始めたこともありますが、温暖化の影響を特に感じたシーズンでした」
2017年3月24日 白樺の枝に腰掛けられる積雪量がある ©ファーストトラック株式会社
2023年4月6日 白樺の枝に手が届かないほど積雪量が減っている ©ファーストトラック株式会社
雪の減少を感じたのは日本においてだけではない。毎年トレーニングで赴くヨーロッパでも身をもってその現象を体感したという。
「先日までヨーロッパで暮らしていたんですけど、オーストリアのラムソーというところに10数年前からほぼ毎年通っています。標高2,700mに位置する氷河に上がってクロスカントリーのトレーニングをしてシーズンに向かうというのが毎年の慣例でした。
10kmコースと5kmコースがあって、雪が多ければどちらもオープンしていて、雪が少ないシーズンは10kmコースはクローズするということもある。それを繰り返す中で、このシーズンに関しては氷河が完全にクローズになってしまって雪すらない。その氷河に向かうケーブルカーを降りた後の道にクレバスが出てしまって、そもそも行くことすらできない状況になってしまった。今年に関しては、雪上トレーニングを目的としてオーストリアに行ったんですが、結局雪上トレーニングができずに終わってしまった。
地元の知り合いに話を聞いたら、30年くらい住んでいるけれど、10月に氷河に上がれないことは一度もなく、初めてだと話をしていました。こういうところでも気候変動の深刻さをより感じて帰ってきたというところです」
ダハシュタイン氷河 今年はここで練習することは叶わなかった ©ファーストトラック株式会社
CO2を測るところから始める
こうした問題意識を持つ中で、“エコパートナー”となったAllbirdsからもアドバイスを受けながら、カーボンニュートラルを実現するための具体的な取り組みが組み立てられていった。その過程をAllbirdsのマネジメントディレクター蓑輪光浩さんは、こう話す。
「孫の世代に誇りを持った仕事をできるか?我々世代が排出したCO2が、地球温暖化の一因になっていて、ウィンタースポーツが打撃を受けている。どうやって次世代に繋いでいくべきか?自分達にも他人にも、まずは気づきを作っていくのが大切だという事を話をしました」
そこでまず渡部選手は、国連が提供する「UN carbon footprint calculator」を利用して、個人としてどの程度CO2を排出しているかを調べることから始めたという。これは、車所有の有無や、飛行機に乗った回数、どんな食生活を送っているかなどを入力すると、一世帯あたりのCO2排出量の概算が計算できるというもの。
渡部選手の場合、年間70トンという数値が弾き出された。日本人の平均が38トン、世界平均が19トンというから、かなりの数値だ。これは、主に海外遠征でのフライト回数と距離が多いことが理由になっていた。
「フライトが57%を占めていたので、やっぱり海外遠征が多いとこうなります。でもスポーツの力でCO2の量を削減しようって言おうとしても、自分が他人の倍近く出していたら説得力がないですよね。ではCO2の排出をプラマイゼロ=カーボンニュートラルでのスポーツ活動をする取り組みをしてみよう、というところからプロジェクトがスタートしました」
この活動に賛同したAllbirdsは、渡部選手が排出した70トンのCO2を長野県の森林クレジットを購入して相殺するかたちでの広告出稿を行った。金額にするとそれは1,039,500円になったという。渡部選手は2023年の4月にクレジットの贈呈式に参加し、実際にヒノキの苗木を植樹したそうだ。
©ファーストトラック株式会社
実際にCO2排出量を減らす取り組み
もちろん渡部選手はCO2排出量を計測して、それをクレジットで相殺することに満足しているわけではない。実際のアスリートとしての活動や普段の生活の中で、どうやってCO2を減らしていくかということに取り組み、それを発信することでこの問題の認知を高めていきたいと考えている。
「自分で取り組みを始めて思うことは、自分ごと化しづらいということ。問題が大きい分、何から取り組んでいいかわからなかったり、自分一人の活動や行動が地球にとってどれだけ影響があるかあるかわからない無力感を感じたり。そこに対してどうアプローチしていくか、自分のこととして切り替えていくかというのはすごく考えていました。
実際に自分のカーボンフットプリントを調べてみて、飛行機の移動が大部分を占めているのを自覚した時に、輸送コストというのがすごくかかるんだなということに気づいた。そして自分の身近にある輸送されているものというとやはり食べ物が大きいのではないか。
スーパーで何気なく買っていた食材が、いろいろな国から莫大な輸送コストをかけて持ってこられたものだったりする。そういうところから、逆に地元のものを買ったりすることで輸送コストに対して削減するアプローチができるんじゃないか、自分ごと化して取り組みやすい課題なのではないかというのが見えてきました」
こうした取り組みと遠征の回数が減ってフライトが減ったことも相まって、昨シーズンは、CO2排出量を70トンから52トンに減らすことができたそうだ。この52トンも北海道の森林クレジットを購入することで相殺する予定だという。
Allbirdsの広告掲載料は昨年と同じ1,039,500円が出稿されるため、渡部選手は差額分を原資に次世代に還元できるようなイベントを行うことを考えている。
「長野県内のノルディックスキーをやっている小中学生に対して、先ほどの差額を使ってりんごを差し入れしようと思っています。ただ差し入れるということではなくて、この長野県というのは全国でも果物の生産量が2位と有名なので、地産地消というテーマにも繋がるような差し入れをしつつ、カーボンニュートラルについて話す機会を設けてもらう。子どもたちが“自分の食卓に並んでいるものがどこから来ているか”というところから環境問題に対して興味を持ってくれるようなきっかけづくりをしていきたいなと思っています」
©︎北野建設株式会社
共にカーボンニュートラルを目指す
一方、“ビジネスの力で、気候変動を逆転させる”ことを目標に掲げるAllbirds自身は、カーボンニュートラルを実現するためにどんなアクションを取っているのだろうか。Allbirdsの蓑輪さんは次のように話す。
「Allbirdsのシューズの特徴の第一はとても履き心地の良い靴だということです。そして、もう一つの特徴がカーボンフットプリントになります。普通のスニーカーは一足を製造するためのCO2排出量が14キログラムくらい、我々のシューズは7キログラムくらいなんですが、全部の商品にカーボンフットプリントを記載しています。
例えばこのシューズでいうとヒールの部分の「7.21」と書いてありますが、これはファッションが与えるカロリーみたいなもの。今はまだどれぐらいの数字が良いものなのか理解されていないと思うんですが、こうやって自分たちが表示することによって理解が深まっていく。さらに測定する方法も皆さんにオープンソースで開示して、他のブランドの方も使っていただけるようにしています。
Allbirdsのメンズツリーフライヤー2のヒール部分には「7.21」とカーボンフットプリントが記載されている。
自分の体重が分からないと減らせないじゃないですか。なので我々も各商品がどのくらいCO2を排出しているというのを知るのはすごく大事で、次に商品をアップデートする時に、減らしていっています。私のボーナスもカーボンフットプリントと連動しています。会社の設定するカーボンフットプリントを減らすと、ボーナスもちょっと上がる。減らさないとボーナスが下がる(笑)、そうやって連動したりしています。
我々もスポーツ業界を長くやってきましたが、カーボンニュートラルなアスリートというのは聞いたことがない。渡部さんのようにレースの先頭を走っているような方々が、次の世代の方々にバトンを渡しながら、カーボンニュートラルなアスリートになる。日本の政府は2050年までにカーボンニュートラルになると宣言していますが、渡部さんはもう2022年からカーボンニュートラルなアスリートになっている。我々Allbirdsも2030年にカーボン排出をほぼゼロにするというコミットメントを持っています。皆さんがいつかやらなきゃいけないことを、初めにやっておくことでアドバンテージがあると思います」
まさに、渡部暁斗選手とAllbirdsは、同じ目標に向かって、同じようなプロセスを辿っている。Allbirdsがイニシアチブを取って進めるCO2排出量を計測し、それを自覚することは企業だけでなく個人であるアスリートにも応用可能なのだ。
©ファーストトラック株式会社
スポーツの存在意義
渡部選手が、こうした活動をアスリートとして取り組むことになったのは、雪の減少という現実に加えて、コロナ禍でスポーツの価値そのものを見つめ直したことがきっかけだったそうだ。
「コロナになって、自宅待機している中ですごく感じたのは、スポーツの存在意義そのものでした。今までは、スポーツ選手は結果を出して競技を広める、そういう活動だけだった。ところが生活に必要最低限なものを考えた時に、スポーツってプラスαなんだなと。
その中でスポーツは競技で結果を出したり、競技を盛り上げるだけではなくて、何かプラスα社会に還元できるものがあって、ようやくそのスポーツが成立してくるのかなと今自分は思っている。それは環境問題だけではないですけど、一番近い課題として環境問題に取り組んでいくことに意味があることですし、選手一人ひとりがそういう意識を持つ。自分はただの選手ではなくて、スポーツプラスαの何かができるというのが新しいアスリート像になっていくんじゃないかなって。そういう選手が引っ張るような形で環境問題に取り組んでいけたらなと思っています。
一歩踏み出すのってすごく勇気がいることだと思うんですけど、最初に話したような無力感も感じたりする中で、一歩を踏み出す勇気を持ってもらう、そういうきっかけに自分がなれたらいいなと思っています」
カーボンニュートラルという壮大に見える目標も、最初の一歩を踏み出さなければ成し遂げることはできない。日々のトレーニングの積み重ねから栄光を獲得したアスリートだからこそ伝えられることがあるのかもしれない。