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30年ほど前に公開された『偶然の旅行者』という映画があります。アン・タイラーの小説を基に映画化されたものですが、残念ながら原作の翻訳版は出版されていないようです(絶版ですが早川書房から翻訳版が出ていたというご指摘をいただきました)。トラベルライターを主人公にしたラブストーリーなのですが内容はさておき、なんといっても惹かれるのはそのタイトルです。“偶然の旅行者”、原題では“The accidental tourist”という言葉には想像力を掻き立てるものがあります。しかし、調べてみるとこれは何か理由があって不承不承旅をすることになった旅行者のことを指す、割と身も蓋もない言葉なのだそうです。

例えば仕事の用事で見どころのない退屈な街を訪れたり、縁のない外国や遠い街に暮らす家族を訪ねたりという機会は起こりうることです。名優ウィリアム・ハートが演じる主人公メーコンは、トラベルライターでありながら家でゆっくり過ごすのが好きという保守的な人物で、彼が書くトラベルガイド『偶然の旅行者』も仕方なく旅をすることになった旅行者に向けて、いかに家で過ごすのと変わらない生活を旅先で送るかということを狙いにしたガイドブックという設定です。

スポーツやアウトドアを趣味にしているとレースやアクティビティのために思いもかけなかった場所を旅することがあります。そんな時は、自分も“偶然の旅行者“なのかもしれません。

先日、100マイルのトレイルレース〈Bighorn 100〉に参加するために2年振りに国境を超えて向かった先は、米国ワイオミング州シェリダンというところでした。成田空港のグランドスタッフですら「シェリダンってどこですか?」と尋ねてくるほどの田舎町です。きっとレースがなければ一生訪れることはなかったでしょう。けれどトレイルランニングをきっかけに触れることになったこの町は、これまで好んで旅してきたリベラルな米国とは全く異なるカウボーイの世界で、行かなければ気づけないこと、発見がたくさんありました。“The accidental tourist”ではありますが、その“Accident”を存分に楽しんだという意味では、映画の主人公とは全く逆の旅行者だったと言えるでしょう。帰国後にはワイオミング州をもっと深く知りたくなり、これも映画化された『ブロークバック・マウンテン』という、この州の自然を舞台に同性愛のカウボーイを描いた小説を手に取ったほどです(書評:『ブロークバック・マウンテン』 ロデオライダーとトレイルランナー)。

“偶然”という言葉だけを抜き出せば、旅において偶然を楽しむことができるかは旅人の重要な素養のひとつと言えるのではないでしょうか。今号の取材でもいくつかの素敵な偶然がありました。瀬戸田で〈Overview Coffee〉のロースターを取材していた時のことです。代表の増田啓輔さんと彼らが取り組むリジェネラティブ農法の話を伺っているうちに、話題はこの島のレモン農家さんへと移っていきました。自然農法や有機農法に取り組む複数の農家さんがいるということでしたが、まさにその話をしている時に当のご本人、〈セーフティファーム〉の能勢賢太郎さんがロースターを訪ねていらっしゃったのです。とんとん拍子に話は進み、翌日には彼の有機農法の畑を案内していただけることになりました。さらには同行したフォトグラファー表萌々花さんの知り合いがこの島でレモン農家をしていることも判明。それが写真家でありながら自然農法で柑橘を育てる〈トニーファーム〉のトニー・タニウチさんでした。5月に『BODY & SOIL』で土と微生物の特集をしていたmark編集チームにとっては、この偶然は必然にも感じられたのです。

また、シェリダンではmark初号『EAT & RUN』で取材したトレイルランニング界のレジェンドであるスコットとジェニーのジュレク・ファミリーに“偶然”再会することができました。ジェニーが「〈Bighorn100〉は、事前に出走者リストを公開しない。だからこそ、参加してみると思いもかけなかった仲間との再会があって嬉しい」と言っていたように、〈Bighorn100〉に参加することをお互いに知らなかった私たちは久しぶりに旧交を温め、レースの間も互いに声をかけあいながら素晴らしい時間を過ごし、前回まだ生まれたばかりの赤ちゃんだったふたりの娘レイヴンちゃんとジェニーが一緒にゴールする姿を見届けることができました。

この2年の停滞を経て、少しずつ世界は動き出しました。移動することで生まれる“偶然”のダイナミズムを私たちは忘れていましたが、旅がまた私たちの大事な一部として戻ってきつつあります。これから始まるみなさんの旅が“偶然”によるものでも“必然”であっても、喜びに満ちたものになるように願わずにはいられません。今回の特集が少しでもその助けになれば幸いです。

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